今日3月12日は、長野県北部地震から14年
最大震度は6強だったが、新潟・長野の県境の山岳地帯は震度7とされる。
特に、長野県の野沢温泉村や栄村での被害は大きく、死者は3人。
豪雪地帯の秋山郷は一時孤立した。
その前日に起こった東日本大震災や、昨年元日に発生した能登半島地震の影に隠れて忘れられた存在だ。
飯山線は廃線は免れて良かったと思う。
地震とは関係ないが、長野電鉄「木島線」は廃止になってしまった。
本数が増えた飯山線や、近い将来開通することになる北陸新幹線の影響も大きかった。
意外だったのは、2012年3月31日限りで「屋代線」まで無くなってしまったことか。
かつては国鉄・JRから直通の急行「志賀」が走り、途中には松代という大きな街もあるのに。
開業当初は河東鉄道として大正期に屋代~木島が開業したが、その大部分が無くなり、後から開業した長野や湯田中方面がメインとなり現存しているのは皮肉だ。
約5年前、屋代線の廃線跡をちょっとだけ歩いたことがあり、過去記事を振り返ってみよう。
2019年12月の記憶
イベント運転で、3500系がまだ並んでいた
通常は乗客の立ち入れない、5番線から、O2編成の臨時列車信州長野行きが発車しようとしていた。
さて、私は廃線ウォークヘ
屋代線代替バスは須坂駅前から出発する
以前、松代乗り継ぎで屋代までバスで行ったことがあり、後に統合されてしまった須坂商業の生徒さんが何人かバス通学していたのを思い出す。
今日は、2駅分歩いてみる
約6㎞
廃線跡が、ちょっとした公園になっていた
市民の皆さんの屋代線(河東線)愛が感じられた
昔は、上野発の国鉄急行「志賀」も通り、貨物輸送も盛んだった
その後しばらくは簡易舗装され、歩きやすかったが
市街の外れからは立入禁止になった、残念
河川の前後は築堤に
橋台が残る
国道へ迂回して行くしかない
井上駅跡に到着
駅舎やホームなどは取り払われたが
記念碑的なものが虚しく立っていた
線路を跨ぐ国道バイパスから見下ろす
跡地の一部は道路になるようだ
時間がなく、しばらく国道を早送りで進む
綿内駅と書かれた標識が見えた
立ち寄り含め、1時間25分で目的地に着いた
綿内駅舎はそのまま残り、バス待合所として大切に使われていた
駅内の名物時計も、今でも時を刻んでいて、感激
しばらく浸っていたい空間
ホームへ出てみた
駅名がうっすら読めた
線路と向かい側のホームは取り払われ、更地になっていた
改札の昔ながらのラッチが健在
しばらく佇みたいところだが…時は流れている
間髪を入れず、1分早く須坂駅行きのバスがやって来た
ここからはショートカットして長野駅へ行くバスも出ていて、ターミナルとして今も機能しているが、須坂駅行きの代行バスに乗ったのは自分一人だけだった。
(明日につづく)
















