SNSを通して「前提が正しければ結果も正しい」という<思い込み>が一般化

しつつあるのが怖い。

だから「カンニングは悪だから、カンニングをした者が自殺しても仕方がない」

などと短絡的な結論になる。まるで中高生レベルに単純だ。

原因と前提は同じではない。前提と結果の間に原因が存在するのだ。

カンニングという行為が一連の事象の発端で、それをきっかけに学校側が生徒と

親に関わり様々な働きかけを行った。そして当該生徒は命を絶った。

 

「カンニングは卑怯者で間違いない。受験では1点差で合否が決まる。

彼は卑怯者だ!」

こういう投稿に「いいね」が集まる。

中高生が言っているのなら仕方がないが、入学試験が「まったく公正」に行われて

いると思えるのは幸せなことだ。

点数順に並べて上から順に合格者を決めるだけなら、合格通知の発送まで一貫し

てオートメーション化できるだろう。順位が出てからが本番で、面倒なのだ。

なぜなら、そこから「人間」が介入するから。

一定程度は点数順だが、それ以降は様々な不平等の上に合格者が決まる実態が

あり、これは人間社会では避けられない。社会の暗黙の了解事項なのだ。

入試にしろ就職にしろ、試験と名のつくものは、全部とは言わないが殆どがそうだ

と思って差し支えない。

もっと言えば、試験に限らず社会はあらゆる欺瞞と不正、不平等に満ちた世界だ。

ハッキリ言って「カンニング」なんて人生において些末なことであり、ケツの毛ほど

の意味もない。

もちろん、清廉潔白・正々堂々、一点の曇りもなく完璧な人生を送っている方もいる

だろうが、自分がそうだからと言って他人にそれを求めるのは違う。

誰もが仙人にはなれないのだから。

 

「卑怯者」を学校側が言ったのか、生徒に言わせたのか不明だが、なぜ学校側が

「卑怯者」といった痛烈な言葉を使うのか。

「それが正義」だと思っているからだろう。

悪を成したものを卑怯者と言うことに「正義」があると信じて疑わない。

「正義の盲信者」と言って良い。

 

「正義」に反論することは難しい。反論するものは「悪」とみなされるから。

だから、「正しいこと」に邁進する自分は「常に正しく、誤っていない」と思い

込み、自分が正義の狂信者であることに気づかない者が出てくる。

そういう人物は必要以上に他者を追い詰める。

間違いだ。

 

人を導くのが教育だ。

本来導くべき生徒の命が潰えてしまって、果たして「正義」はあるのだろうか?

 

 

正義:人の思考を停止させる魔法の言葉

 

「正義」とはそもそも絶対的なものではない。

「正義」は人間が作り出した言葉・概念であって、そうである以上、それを使う人

や置かれた環境、損得によってその都度「正義」は変わる。

正義は相対的なものであって、実に不確かな概念なのだ。

 

一方、目下のところ、教育は人間に「正しいこと」を身に着けさせるのに最適な

システムだ。

残念ながら、多くの場合人を導くところまでは行っていないのが現実。

数学にしろ国語にしろ、音楽や美術にしても幼い頃から「これが正しい」と

教え込まれ、脳に刻み込まれる。

知らず知らずのうちに人は「教えられた正しいこと」を盲目的に行うようになる。

だから人の頭は、「正しいこと」が提示されると、そこで思考停止に陥り、大した

疑問もなくそれを受け入れる構造になってしまう。

 

戦争当時の軍国教育は、それ自体が正義だった。

敢えて言うが、正義を根拠として振りかざす者は疑ってかからねばならない。

なぜなら「正義」という言葉以外に明確な根拠がない場合に使われるからだ。

正義は、時にそれを唱えるものに利益をもたらすための道具として利用される。

 

殺人は悪である。よって殺人犯は厳しい処罰を受けるべきだ。

だからその殺人犯を擁護する弁護士はとんでもない奴だ。

みんなでこの弁護士を吊るし上げよう!

SNSではこういった意見が多数派を形成する。

基本的人権に鑑みれば、みんな等しく裁判で弁護を受ける権利があり、

だからこそそれが制度化されている。

殺人犯にも弁護士がつくのは裁判制度で規定されているのだ。

そう言うと、制度がおかしいとか人権などくそくらえとか言い出す輩が出てくる。

人権が蔑ろにされた時代(直近であれば戦中)日本でどんなことが起きて

いたのかといった知識が皆無だし、もしそうなった場合、自分がどんな危険に曝さ

れるのかといった想像力もない。

 

戦中の隣組制度は、国益に沿って隣人同士一致協力させるために機能したと言え

ば聞こえは良いが、見方を変えると住民の相互監視・密告制度の側面があった。

学校で軍国教育を受けた無垢な子供が、戦争に否定的な言葉を呟いた親を密告し、

警察に引っ張られた親はボロボロになって帰宅。

子供は、そういう親の姿を見ても、その当時は罪悪感を一切感じず、 むしろ自分は

「正しいことをした」と誇らしく思ったらしい。

 

教育とは何だろう?

 

正しいとは何だろう?