「高校入試に英語のスピーキングテスト(ESAT-J)」で浮かんだ疑問 | 野良猫の目

野良猫の目

~本当は寝ていたい~

 

【青色の文字にはリンクが貼ってあります。】

 

次年度の都立高校の入試から英語のスピーキングテストを入れると聞いて驚いています。

数年前から話は耳にしていましたが、「そんなこと出来るわけないじゃん」と高を括っていたのです。ところが……、現実になろうとしているのですね。本当に自民党政権や小池都政は「なんでこんな?」ということを臆面もなくやってしまうので、恐ろしいです。

そこで、東京都のウェブサイトの資料を読んで思い付いた“なんでこうなるの?”と頭に浮かんだことを書き出してみました。

例によって、思いつくままに書いていますので、何処まで的を射ているかは分かりません。

 

 

1.一体何の為の高校入学時スピーキングテスト導入か

入試というのは、いままで漠然と「入学後に必要な学習についての達成の程度を判定する」ために実施するものと考えていました。平たく言ってしまえば「ウチの学校の授業についてこれるだけの学力があるか」ということです。

以前から、一部の都立高校でデスカションやプレゼンテーションを授業に取り入れるなど、英語教育に力を入れている都立高校があることは聞いていましたが、入学時の試験でスピーキングの試験をやっていなくても、そのような授業に対応できる生徒を募集できていたことになります。このように考えると、一体何の為に改めてスピーキングテストを統一して導入するのか、そして、その時期は高校入学時でなければならないのかという疑問が湧いてくるのです。

 

 

2.採点業務を外国の業者へ委託して、公平な採点ができるのか?

都立高校の入試((ESAT-J)では、回答はフィリピンで採点されるということですが、「本当にこれで公平な採点ができるのか。」と疑問が湧きます。現場の先生方からもいろいろな問題点を指摘する声があがっているようです。

 

東京都のウェブサイトで一通りの採点基準は公表されていますが抽象的なレベルを超えていないように感じます。これでは採点する者の主観に負うところが大きいように思います。令和元年度のプレテストの問題が都のウェブサイトにアップされていますが、これを見て感じたことは「実際の入試の前に、試験官のためにできるだけ多くの具体的な回答例を用意し、それぞれについてどのような要素が満たしたから評価基準に達した、あるいはどのような要素が満たされなかったから評価基準に達していないと判断したのかを例示するなどして、判断基準を具体的かつ明確にする必要があるのではないか」ということです。試験官が何人になるか想像もつかないのですが、実際にこんなことできるのでしょうか。東京都のウェブサイトを見ても、このような視点から作られた試験官のための共通の評価基準があることを示すようなものは、私には見付けることができませんでした。

 

脱線しますが、仕事で英語を話していて感じたことは、「国によって英語は変わる。」ということです。今思い出すだけでも、アメリカ人(東海岸、西海岸)、イギリス人、フランス人、イタリア人、ドイツ人、インド人、フィリピン人……、みんなそれなりの“響き”をもった英語を話していました。勿論私も俗に言う「ジャパニーズ・イングリッシュ」を話していたのでしょう。

そんな私がアメリカ人から「You speak like an Indian.」と言われたことがあります。そのころの私は、仕事で週に2~3回、東京に駐在しているインドの方と話をしなければならず、知らず知らずのうちにIndian English(というか「ヒンディー・イングリッシュ」)の影響を受けていたのでしょう。

私の現役時代ではフィリピンの英語を“タガログ・イングリッシュ”と呼んでいました。確かに“フィリピン共和国”の公用語は英語であっても、会話として見れば英国(イングランド)の英語とは違うものなのです。

 

話を戻します。

例えば、東京都の採点基準の「発音・流ちょうさ」の項目には次のような記述があります。

 

(1)

・発音、語や句、文における強勢、イントネーションやリズムが、母語の影響を非常に強く受けている。

(2)

・発音、語や句、文における強勢、イントネーションやリズムが、母語の影響を強く受けている。

(3)

・発音、語や句、文における強勢、イントネーションやリズムが、母語の影響を受けている場合があるが、概ね正しい。

 

ここでいう「母語」は日本語のことだろうと思うのですが、日本語を母語としていない者が試験官となって、このような判断ができるのか私には疑問です。

 

また、評価基準の「使用言語」の欄に掲げられた評価要素についても、日本人である受験者が、自分の持つ日本的な経験・習慣・感覚から回答をした場合に、文化の違う国で育った試験官が、これが適切なものかどうか判断出来るのか、という疑問もあります。

 

 

3.一体誰の利益のためにやるのか

ここで、感じる疑問点は、一体誰の利益のために都立高校の入試で統一したスピーキングテストを導入するのかということです。勿論第一の受益者は高校生(高校生の将来も含めて)でなければならないと思うのです。

 

「英語『話すこと』の評価に関する検討委員会報告書」には次のような記述があります。 

「授業では依然として、文法・語彙等の知識がどれだけ身に付いたかという点に重点が置かれ、外国語のコミュニケーション能力の育成を意識した取組、特に「話すこと」及び「書くこと」などの言語活動が適切に行われていないことや、「やり取り」、「即興性」を意識した言語活動が十分ではないこと」などの課題が指摘されている。

(同報告書2ページ)

 

 

 

これを裏読みすれば、中学校卒業の段階で英語での会話のやり取りや、即興的な会話力を身に着けなければならないということになりますが、日本語でも機転の効いた即興的は会話力など、あればそれに越したことはないのでしょうが、必須のものなのでしょうか。まして英会話においてはどうなのでしょうか。

 

また、仕事で英語を使っていて感じたことですが、英会話には次の三つのパターンがあると思います。

① 英語を母国語とする者同士が英語で会話する場合

② 英語を母国語する者と外国を母国語とする者とが英語で会話する場合

③ 異なった外国語を母国語とする者同士が英語で会話する場合

 

実務レベルで使う英会話であれば上の②と③で、しかも仕事に関連する領域に限られる狭い範囲です。このレベルのものを高校で身に着けるのであれば、必ずしも中学校卒業の時点で「機転の効いた即興的な会話力」が必須とは思えないのです。しかし、高校生が将来、英語圏に留学する場合のことを考えれば、高校生に①のレベルまでのもの、それも概念的な(例えば哲学レベルの)話題の議論ができるまでのレベルのものが要求されるのかも知れません。都立高校は、入試にスピーキングテストを導入するにあたり、どのようなレベルのものを高校で体得すべき最低限のレベルと想定してカリキュラムを設定し、そしてそのためには中学校卒業時点でどのようなレベルの会話力が必須だと考えているのでしょうか

 

 

私のような素人がチラチラと資料を読んだだけでもこのような疑問が生じるのですから、事情に詳しい人は更に多くの問題点を意識しているのではないでしょうか。ところが、都庁のウェブサイトで公表されている資料を読むと、そのような問題点を検証することなく、スピーキングテストの導入が結論ありきで進められようとしているように感じます。そこでは子ども達の利益というより、いわゆる「受験産業の業者」の利益が導入の目的ではないかと、報告書自体がそれを正当化するための作文でしかないのではないかと、下衆の勘ぐりをしてしまうのです。

 

特にアベ政権以降、目指す社会的利益が見えてこない政策が多く見受けられるのですが、その目的を考えるとき、「これで誰が儲かるの」という勘ぐりで推測していくと大体納得する結果になることが多いのです。