まだまだ、何を行うか、行えるかは決めた訳ではないけど、
すっくと立つことにした。

一日、一日一生懸命生活しよう。

まず、背筋をのばすことから始めよう。

困難にぶつかるとして、
やりたくないことがあるとして、

それをやるかどうかは、本人がどうとらえるか。


難しいから諦めるのか、難しくても努力するのか。


その分かれ道は、その決断は、その困難や嫌なことを乗り切ることに、本人が価値を見出すかいなか。


久々にまともな日記を書こう。

今後地理学や地理教育をどうしていったらよいか。地理学や地理教育はどうあるべきか。

それは、地理思想(Geosophy)というようなものであり、その地理思想を少し考えていかねばならないのかなと思っている。

ただ、それらを考えて行く上で、2点記述しておく。

①地理教育そのものが社会・政治によって規定されること。今度東京都では日本史必修化を行うが、結果として地理教育の縮小がおこるだろう。
この間、同期で飲んで思ったことだが、歴史と地理の間に大きな差がある。歴史は教えることを前提に内容を吟味するが、地理は、なぜ地理が必要か、をまず議論しなければならない。
こうしたことは、現在の社会・政治体制下における両教育の立場を示している。まず、両者の立場を同様にせねばならないだろう。また、互いになぜ教える必要があるかは、互いに考えなければならない。

②一方で、教育大学のなかで地理学が残存するという事実があること。これは、大きな問題で、地理学から地理教育があるのではなく、地理教育のための地理学になっている。いくつか要因があるが、先述の社会・政治体制の影響に加えて、地理学における教育への関心の低さも問題であるように思える。

これは、個人の力では(もしくは、集団であっても)仕方がないものであり、誰か政治的に力を持った人が出てくるしかない。
しかし、こうした前提がありながらも地理思想を考えていくのは、決して無駄ではないと考える。

なぜ、何を、どのように、学ぶのか。なぜ、何を、どのように、教えるか。

これらの疑問に対して、今思うことを述べておきたい。