日月神示によると、今までは逆の世の中ですから、七五三(しち
ごさん)で子どもの成長を祝ってきました。また、注連縄(しめ
なわ)は、「七五三縄」とも書きます。
しかし、七、五、三は、だんだん終息していくリズムであり、言
ってみれば岩戸閉めのリズムになります。
逆に、三、五、七だと、末広がりに無限に栄え、開かれていくわ
けです。
このことは、『夜明けの巻』第10帖に明確に示されています。
「今までのシメはこの方等(ほうら)シメて、悪の自由にする逆さ
のシメざから、シメ張るなら、元のシメ、誠のシメ張れよ。七五
三は逆さぞ。三五七ざぞ。天地の息吹ぞ。波の律ぞ。風の律ぞ。
神々様の御息吹の律ざぞ」
和多志の動画でも説明してます↓
【元々の語源の由来について】
しめ縄は「七五三(しめ)縄」「注連(しめ)縄」とも書きます。
七五三縄(しめなわ)と書くのは、左ねじりの縄にわらを三本、五本、七本の順に垂らし、その間に白紙を細長く切った「しで」(四手・垂・幣)を下げたところからきています。
また、「注連(しめ)」は、中国の注連(ちゆうれん)の文字を用いたもの。死んだ人の出棺後、家の入り口に清めの水を注いだ縄を連ねて張ったのが注連で、再び死者の霊魂が入らないようにするための習俗でした。
「七五三」は7歳、5歳、3歳の子供の成長を祝い、男の子は5歳、女の子は3歳と7歳で、神社や寺に詣でる年中行事です。
現在では全国で行われていますが、元々は関東圏における地方風俗だったのが全国に広まったもののようです。
昔は今と違い乳幼児の生存率がとても低く、3歳まで生きるのでも大変だったようです。まして5歳、7歳となるとなおのこと。そこで7歳までは子供は人間ではなく、神様からの預りものという認識を抱くようになりました。
子供が無事7歳を越えてくれれば、後はほっと一安心と言うわけです。七五三というお祝いの文化は、このような考えをもとに生まれたもののようです。
昔は、7歳まで成長できた子供はお祝いをした後、氏神様(自分が住んでいる所を守ってくれる神社の神様)にお参りし、氏子札をもらいました。氏子札をもらって初めて人格として認められ、地域社会の仲間入りを果たすことが出来るという考え方があったようです。
昔は、7歳まで成長できた子供はお祝いをした後、氏神様(自分が住んでいる所を守ってくれる神社の神様)にお参りし、氏子札をもらいました。氏子札をもらって初めて人格として認められ、地域社会の仲間入りを果たすことが出来るという考え方があったようです。
それに「なぜ七五三か?」と言えば、中国そして日本では奇数を「陽数」といって縁起のいい数という考え方があったためです。
元旦や桃の節句、端午の節句など奇数の重なる日に特別のお祝いをするのもこの考え方によるものです。
そして「七五三の祝い」はもともと公家や武家の文化だったものが、江戸時代から大衆文化にまで広がりました。
ところで、「七五三」であってなぜ「三五七」ではないのでしょう?
「長幼の序からいって上の子を立てて七五三にしたんだろ」。確かに一理あります。あるいはそのとおりかもしれません。
話は本来の七五三から大きく逸脱、飛躍しますが。神道系のある説によると、今の世の天地律そのものが「七五三」の律動(リズム)なのだそうです。
しかし本来は「三五七」が「正律」なのであって、七五三は「逆律」つまり本来の天地のリズムとは真逆なのだと言うのです。
本来の根本律が180度引っ繰り返っている以上、世が進めば進むほどそれに準拠している政治、経済、宗教、教育、文化などすべてにおいて混迷を深め行き詰まるのは理の当然だと言うのです。
本来の根本律が180度引っ繰り返っている以上、世が進めば進むほどそれに準拠している政治、経済、宗教、教育、文化などすべてにおいて混迷を深め行き詰まるのは理の当然だと言うのです。
これを根本から正すには、本来の「三五七」のリズムに戻さなければならない。そのため我が国では幕末、明治から、そのための「立て替え」「立て直し」が徐々に進行してきた。
そして近未来「世の大峠(おおとうげ)」を迎えることにより、逆律から正律への切り替えが為され、天地のリズムは三五七になるだろう、と言うのです。
【お正月によく目にするしめ縄これを深く勉強するとしめ縄の正体がわかります。】
天照大神が天岩戸に二度と入れないよう、太玉命がしめ縄で戸を塞いだのが起源とされる。
神域(常世/とこよ)と俗世(現世/うつしよ)を隔て、結界の役割がある。
ズバリ、しめ縄や鳥居とは、、神様をしめ縄や鳥居で結界をはり、閉じ込めてしまうもの。
霊界と人界はつながってるな、というのは皆さんはなんとなくわかると思います。
ではなぜ、神界とだってつながっているのに、そこにわざわざ結界を張って、隔てる必要があるんでしょうか。
天照大神が天岩戸に二度と入れないよう、太玉命がしめ縄で戸を塞いだのが起源とされる。
神域(常世/とこよ)と俗世(現世/うつしよ)を隔て、結界の役割がある。
ズバリ、しめ縄や鳥居とは、、神様をしめ縄や鳥居で結界をはり、閉じ込めてしまうもの。
霊界と人界はつながってるな、というのは皆さんはなんとなくわかると思います。
ではなぜ、神界とだってつながっているのに、そこにわざわざ結界を張って、隔てる必要があるんでしょうか。
神様は特別だから?
聖域だから?
不浄が入らないように?
それは表面だけの「偽善」でありきれいごとです。
実は正神を追いやり封じ込める、「鬼は外、福は内」と同じ原理です。
悪神が、正神と人とを隔てて接触させまいと、できたのがしめ縄や鳥居、節分などの行事なのです。
今の今まで大真面目に伝え守られてきたものは現在まで常識と私たちが信じていたものは、ほとんどが悪神の策略であるということです。
私たち人と、神様の間に、隔てるものなど必要ありません。
神界と霊界と人界と、すべてが影響し合い、つながっています。
神様や守護霊様、ご先祖様は手の届かない遠くにいるのではありません。
次元が違うから、こちらからはわかりづらいだけ。
いつだって私たちを見守ってくれています。
私たちの胸の奥、心の中には神様とつながるハンズフリーの電話があるようなもの。
あなたを守護してくださっている大いなる存在は、いつ話しかけてくれるかと、心待ちにしているはずです。
ひふみ神示によると、ホンモノの天照大神は、まだ岩戸の中にいるそうです。
……………
神界と云ひ、現界と云ひ、一本の国であるから、神界、中界、現界つらぬきて居らねば、マコトの和合して居らねば、マコトの喜びでないから、心せねばならんぞ。
天使と云ひ、天人と申すも、みなそれぞれの国の人間であるから、この道理判りたら、地の世界と、中の世界と、天の世界と、みな同じであるから、もちつもたれつであるから、
地の上に禍あると、天の国にも禍ふのであるから、天の国の生活は地の上に根をつけてゐるのであるから、遠くにあるのでないぞ。
(白銀の巻 第六帖より)
この神には鳥居と注連(しめ)は要らんぞ。追ひ追ひ分かりて来るぞ、身魂みがけば何事も分りて来ると申してあろがな、黙ってゐても分るやうに早うなって下されよ、神の国近づいたぞ。
(下つ巻 第十五帖より抜粋)
岩戸は五回閉められてゐるのざぞ、那岐(なぎ)、那美(なみ)の尊の時、天照大神の時、神武天皇の時、仏来た時と、
(白銀の巻 第六帖より)
この神には鳥居と注連(しめ)は要らんぞ。追ひ追ひ分かりて来るぞ、身魂みがけば何事も分りて来ると申してあろがな、黙ってゐても分るやうに早うなって下されよ、神の国近づいたぞ。
(下つ巻 第十五帖より抜粋)
岩戸は五回閉められてゐるのざぞ、那岐(なぎ)、那美(なみ)の尊の時、天照大神の時、神武天皇の時、仏来た時と、
大切なのは須佐之男神様に罪着せし時、その五度の岩戸閉めであるから此の度の岩戸開きはなかなかに大そうと申すのぞ。
(日の出の巻 第一帖より抜粋)
天照皇太神宮様(テンショウコウタイジングウサマ)の岩戸開きは、だました、間違ひの岩戸開きぞ、無理にあけた岩戸開きざから、
(日の出の巻 第一帖より抜粋)
天照皇太神宮様(テンショウコウタイジングウサマ)の岩戸開きは、だました、間違ひの岩戸開きぞ、無理にあけた岩戸開きざから、
開いた神々様に大きなメグリあるのざぞ、今度はメグリだけのことはせなならんぞ、
神にはわけへだて無いのざぞ、今度の岩戸開きはちっとも間違ひない、まぢりけのない、マコトの神の息吹でひらくのざぞ。
(第15帖 磐戸の巻より抜粋)
(第15帖 磐戸の巻より抜粋)
天の大神様は慈悲深くて何んな偉い臣民にも底知れぬし、地の大神様は力ありすぎて、人民には手におへん見当取れん、そこで神々様を此の世から追い出して悪神の云ふこと聞く人民許りとなりてゐたのであるぞ。
七五三(しめ)は神々様をしめ込んで出さぬ為のものと申してある事これで判るであろがな、鳥居は釘付けの形であるぞ、
基督(キリスト)の十字架も同様ぞ、基督信者よ改心致されよ、基督を十字架に釘付けしたのは、そなた達であるぞ、懺悔せよ
(雨の巻 第二帖より抜粋)
岩戸しめの始めはナギ(伊邪那岐命)ナミ(伊邪那美命)の命の時であるぞ、ナミの神が火の神を生んで黄泉国に入られたのが、そもそもであるぞ、次の岩戸しめは天照大神の時ぞ、大神はまだ岩戸の中にましますのぞ、
(雨の巻 第二帖より抜粋)
岩戸しめの始めはナギ(伊邪那岐命)ナミ(伊邪那美命)の命の時であるぞ、ナミの神が火の神を生んで黄泉国に入られたのが、そもそもであるぞ、次の岩戸しめは天照大神の時ぞ、大神はまだ岩戸の中にましますのぞ、
ダマシタ岩戸からはダマシタ神がお出ましぞと知らせてあろう。いよいよとなってマコトの天照大神、天照皇大神、日の大神、揃ふてお出まし近うなって来たぞ。
次の岩戸しめは素盞鳴命に総ての罪をきせてネの国に追ひやった時であるぞ、命(みこと)をアラブル神なりと申して伝へてゐるなれど、
アラブル神とは粗暴な神ではないぞ、アラフル(現生る)神であるぞ、天ヶ下、大国土を守り育て給う神であるぞ、取違ひしてゐて申しわけあるまいがな。
(五十黙示録 碧玉の巻 第十帖より抜粋)
(五十黙示録 碧玉の巻 第十帖より抜粋)
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