人間であるということ | 文の書斎

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〝ふみ〟と読みます。
女です。

小説、詩など、上手く書きたかった中学生も、もう大学院生になりました。
更新頻度は蝸牛並みですが、細々と続けています。

日常、趣味、好きな事中心。
心情を綴る/考えたことをまとめて置いておく場所。

2つ前の記事で結婚について思ったことをまとめていた。

今週の頭に長年"付き合った"人に別れを告げたので、今日もここで思っていることをまとめてみる。

 

自分にも幸い、というべきか、家族以外で隣にいてくれる人がいる。

一緒に過ごした時間は決して長くはないのだが、「付き合っている」という事実を継続した期間だけは長くなってきた。

不思議なもので、先日は初めて行った新しい家が初めてと思えず、一緒に朝ごはんを食べる光景に違和感を感じなかったのも事実としてある。

一方で隣にいるとその話し方ひとつ気に入らないところが見つかってしまうのも、まあそんなものかと思わざるを得ない。

 

こんなことを書いていたのは約8ヶ月前。

付き合ってる意味あるんだろうか?と真面目に考え出したのが3週間前。

 

高校の友だちとプチ旅行に行った。

結婚した人もいれば、何人目かの彼氏がいる人、今はいない人、いたことがない人もいて実に色々。

そんな中、このままでいいのかなって思うときがあるし、その人で本当にいいのかどうかわからなくない?という話をした。

彼氏がいたことがない友だちは、後者にすごく共感してくれて、ただ彼女は付き合う相手に対してそういうことを考えてしまうという一方で、私は結婚に対して相手がいる状態で考えるというところで相違点がある。

別の友だちは前者に対して、「他にいい人がいるかどうかわからないという理由で別れないなら、それは他にもいい人はいるから心配しなくていい」と言った。

過去何人かの彼氏がいて、今もある素敵な人と付き合っている彼女の言葉はある意味説得力があった。

 

彼とは2017年の7月から付き合っていた。

実に5年半以上、彼氏・彼女という関係だった。

一方私は実家住みで、相手は一人暮らしで、私自身親の顔色を伺いがちな「いい子」なので、丸1日一緒に過ごすとか、泊まりに行くとか、そういうことはすごく少なかったと思う。

 

だからこそLINEは重要な連絡ツールで、見返せばものすごい量のやり取りをしていた。

電話はほとんどしたことなかったが、部活という同じコミュニティにいた頃は特に、何をそんなに話していたんだろうと思うくらいやり取りをしていた。

 

それが変化したのは2020年の春頃で、これはちょうどコロナの始まりの時期でもある。

外出自粛、大学も入構禁止などがあり、一人暮らし同士ならまた違ったのかもしれないが、家族と住んでいると罹って家族に移すのも嫌で、2ヶ月くらい外出せず、その間一切会わなかった。

会わないことに問題はなかった。そもそもその前から会うのは部活の練習+月数回だった。

けれどその頃から、LINEの中身がスタンプ合戦とバイトの出退勤の報告ばかりになっていた。

 

大学院に上がり、コロナで部活も半強制的になくなり、共通の話題が減っていたこともあるかもしれない。

そもそもLINEというのは文字のやり取りなのだから、会話を振るとかなんとか努力?しないと会話が続かないものだと思っていたが、彼はしょっちゅう相槌一言を返す人だった。

スタンプ一つに笑うオノマトペ一言というのもよくあった。

そんなの、なんて返せばいいのか、どう会話を続ければいいのかわからない。

最初の頃は頑張って何か話題や会話を振っていた気がするが、そのうち自分も適当になり、同様に相槌一つを返すようになったのは自覚している。

だからこそ、話題が続かなくなったときにスタンプ合戦が増えていったのだと、今なら理解できる。

 

1年前、私たちは大学院の2年を終え、私は大学に残り、相手は就職して同じ地を離れた。

もともとコロナ以降会う頻度も減っていたから、物理的な距離が離れたからと言って、変わったことはほとんどなかった。

LINEの中身も、返信の間隔やタイミングが出勤時間に減ったくらいで、ほとんど変わらなかった。

 

振り返ると、このままでいいのかなぁなどと思うことが出てきたのは、2020年の春頃だった。

これは会話の中身が変化した頃と一致する。

コロナに託けているが、もともと会う回数が少なかったとは言え、その頃から特別会いたいと思う頻度?が減っていたとも思う。

そして、会っても相手の家に行くか、適当にドライブするか、買い物するか、それくらいしかなくなっていた。

 

4年生のとき、院試が終わってから研究室の先輩たちが飲みに連れていってくれたときのこと。

今でも覚えているが、聞かれてもないのに何かの話の中で彼氏の話をしたことがある。

それは、男ばかりだった研究室内の学生の前で「私には恋人がいる」ことを予防線として?言いたかったとか、単にそれくらい。

しかし大学院入学以降、知り合う人や後輩たちは増えているはずなのに、その存在を言いたいと思うことはなくなった。

むしろ仲間として仲よくなりたい後輩の前でもなんとなく彼氏の存在を隠していた。

つい最近、卒業していく後輩に聞かれて初めて答えたくらいだった。

 

つまり、この2, 3年で既に昔ほど好きではなくなっていて、なんとなくただLINEを続けるのが当たり前、という存在になっていたのだと思う。

そうでなければ、出張に合わせて会う予定を立てる以外でも遊びに行きたいと思うのではないだろうか。と。

 

私たちは周りの「カップル」に比べたら直接共に過ごした時間は短かったと思う。

一方でその短かった時間は決して問題ではなく、適当に連絡したり、その日の話をしたり出かけたり、そういったことができる相手は本当にありがたかったし、カフェに行くとか、旅行するとか、ドライブするとか、一緒に料理するとか、少なくてもそういったことは楽しかったし、ちゃんと好きだったのだ。

 

ではどこですれ違ったのか?

 

私もそうだが、相手も言ってみれば「事なかれ主義」だった。

どこまでがその人の個性で、どこまでが人として直すべき部分で、どこまでが"私が"直してほしい部分なのか。

自分のやりたいこと、相手にしてほしいことを、相手はどう思っているのか。

本当は相手はもっと会って色々なことをしたかったかもしれない。

ちょっとでも気になったことは口に出して、価値観をすり合わせるべきだったのかもしれない。

しかし、私たちは一切言わなかった。

 

相槌一つで返ってくる返信が嫌いだった。

もともと用事のない連絡は得意ではないし、話題がないならLINEをやめてもよかった。

無難なスタンプを送りまくって、今日も平和だね、なんて、最初の頃は楽しかったが、最近は正直どうでもよかった。

 

ちゃんと好きだったときでさえ、お金がないと言いながらバイト終わりに友だちのバイト先に飲みに行くことをやめなかった頃は、私が一人暮らしじゃないからわからないだけか?と飲み込みつつも、理解できなかった。

 

会う回数は少なかったが、だからと言って家に行くたびにそういう雰囲気になって昼からそういうことをするのも、毎回だとちょっと嫌だった。

けれど、相手も許可は取ってくれていたけれど、我慢させているのはこっちだからと、いつも断らなかった。

 

部活の中で仲よくなって、たくさん遊びに行ったし、なんだか自然に好きになって、わざわざ夜の海辺まで行って告白させて。

高身長で楽器を吹く姿や、好きなものはとことん詳しいところも、車の運転が上手で、人に優しいところも、好きだった。

 

一つ一つの「嫌だった」ところをきちんと話すべきだったのだな、と、最後に話した。

必ずしも自分が正しくないとわかっていても、仕事ならお互いの共通認識を持って進めるために話し合えることが、二人の間ではできなかったのだ。

もしかしたらそんなことを話し合うほど一緒にいなかったのかもしれないが、いや、時間は関係なく、その「他人」と共に生きていくならば、お互いのことをもっと知るべきだったのだと思う。

 

話すことをすごくしっかり考えて、カンペも用意していったが、いざとなると本当にいいのか?と逡巡して時間を使ってしまったのはよくなかったけれど。

出張先のホテルに戻って、その日と次の日は、意外とショックな自分にショックだったけれど。

中身がほぼなくなっていたLINEのやり取りがなくなっただけで、他にこれといった変化がないのだから、やはりここで区切りをつけてよかったと思う。

少なくとも、最初の約3年が楽しかったのは事実だし、残りの約3年近くもきっと無駄ではなかった。と思いたい。

ある種の思い出と学びがあったことは事実なのだから。

 

あと2年、私の環境は変わらない。

学生であって、半分社会人であって、研究室、大学というコミュニティで生きていく。

そのあとどうなるかは自分でもまだわからないが、どういう形であれ誰かの目標になれるような人になりたい、という目標だけがある。

 

もともと友だちも少ないし、まして異性とのそういう仲よくなり方ももう知らないな、と自分で心配になるけれど。

高校の友だちの言葉を信じて自分磨きを忘れずに、どこかでご縁があることを祈っている。

それがもう出会っている人なのか、これから出会う人なのかはわからないけれど。

 

昨日久しぶりに会った先輩は、学部2年の頃から付き合っている彼女と今度結婚するらしい。

今日もインスタで結婚報告をした先輩がいた。

 

結婚した高校の友だちに、本当にその人でいいかわからなくない?と聞いたら、結婚はこの人で大丈夫だと信じる心と、あとは勢いだと教えてもらった。

一人の大人として、人間として、昔よりは成長できているだろうが、そんな自分を自分で理解できているとは思わないし、自分の未来もまだ想像できない。

だから、まだ誰かの人生に責任なんて持てないなとも思う。

それとも、そういう相手とは、やっぱりわからないけど一緒に未来を作りたい、と思うのかしら。

そしてそういう気持ちが芽生えたときが「愛」なんだろうかね。

 

まずは改めて、ここから自分磨きをしようと思う。

 

文字に残すという作業は、このとき自分はどう思っていたのか、何を考えていたのかを振り返るのに役立つ。

今回のことは、また新しい変化があったときに読み直したい。

そしてそれがいい変化であることを期待する。

 

 

 

追記:

この5年半、というか人生でこれまで検索したことのなかった、誰かとパートナーになるということについて「有識者」の言葉を検索してみた。

その結果自分の中で納得したのは、「その人と一生一緒にいる覚悟」は無かったのかなということ。

そして、その背景にあるのは各々の「受け身姿勢」だったのかなということ。

 

事なかれ主義とは、世渡りとしては良いようで、他人と一生付き合っていくにはやはり悪い。

ある意味「仕事」の「パートナー」である指導教員とだって、意見交換や、己の考え方について話すのだ。

もちろんこれは指導教員がそういう「自己理解」に興味があるせいでもあるけれど。

何れにせよ、他人同士が将来一緒に暮らそうものならば、黙っていてはいけないのだ。

 

先日たまたま見ていたスッキリで、彼のちょっとした行動で冷めてしまうという女子たちに対して、みちょぱが「私だったら先回りして自分がやってあげようとか確認しようとかすると思う」と言っていた。

それに対して、加藤さんが「一緒にいる覚悟をしたってことだよね」と言っていた。

私たちは本気で「一緒にいる覚悟」や「パートナーという理解」をしていなかったのかもしれない。

 

そういう意味では私も受け身だった。

会話が盛り上がらないならこっちが話題を出そうとか、行き先が決まらないなら自分が決めようとか、ちょっといつもと違うお出かけを考えようとか、そういうことをしなかった。

自分でやらないわりには貴方に期待していて、勝手にちょっとがっかりして、それでいいよ、ってこともあった。諦めていた。

最初は頑張っていた部分もあっただろうが、徐々にその気持ちもなくなっていた。

それは、相手が「期待したい彼氏」であって、「一緒に成長したいパートナー」ではなかったということだろうか。

 

期待するのは悪いことではない。

がっかりしたから冷めたわけではないはずで。

残念だった面を見たり、考え方が違ったり、そういうことがあったときに"喧嘩"が必要なのだな、ということだ。

 

最後に言いたいこと、として、結婚も考えていた、ということを言われた。

だろうな、という感想だった。

そりゃあ、付き合ってたら結婚するか別れるかでしょ。という考えはもう付き合ってすぐの頃から持っていて、ただ現実を捻くれて見ていただけなのだけど。

そうしたとき、じゃあ貴方はそのために何かした?とも思う。

相手にとって、私も「彼女」であって「パートナー」ではなかったのかもしれない、とも思う。

 

時間はかかってしまったが、これも「大人」としての一つの学びだな、と。

先日知り合いの博士の先輩がお相手のことを「僕の彼女」ではなく「僕のパートナー」と呼んでいたのも印象的だったが、そんなこと一つにも改めてその先輩の成熟さを感じてしまう。

そして自分の未熟さにも気づかされた今、この間友人の言った"結婚はこの人で大丈夫だと信じる心"だというのも、お互いの価値観をぶつけ合って擦り合わせて信頼関係がある上での言葉なんだろうな、と思わされる。

 

さて、これも人間としての成長だな。

ゆっくり行こう。