腰が痛い。
ただの腰痛ではない。これはもう、“人生の節目”と言ってもいい。
最初の兆しは、あの春の日だった。
大学時代、ラグビー部の猛者として泥だらけのグラウンドに身を投じていた日々。
そこで蓄積された“若さの無謀”が、やがて静かに牙をむいた。
それは突然やってきた。
卒業後、実家に遊びに来た旧友に「チャーハンでも振る舞おうか」と、気軽にフライパンを持ち上げた瞬間──
ゴキッ。
音はしなかったが、確かに何かが体内で崩れ落ちた。
次の瞬間、私はその場で固まり、フライパンを持ったまま彫像のようになっていた。
あれが“チャーハンの悲劇”である。
時は流れ、場所は下田。
風光明媚なその地で、穏やかな午後に椅子から立ち上がろうとした瞬間。
──ドサッ。
意識はある。だが、身体が動かない。痛いのではない、動けない。
あの時は本当に、何が起こったのかわからなかった。
まるで“魂”だけが一歩先に立ち上がり、肉体を置いていってしまったようだった。
あれが5月20日。私の“腰暦”に刻まれた第二の節目の日である。
幸い、友人の助けで病院へと運ばれ、なんとか社会復帰したが、
それからというもの、春になるたび、身体がざわつく。
4月、5月──そう、“腰の魔月”がやってくる。
原因は坐骨神経痛。
腰というより、お尻から右足にかけての痛みが、もはや“生き霊”のように付きまとう。
湿布では効かず、結局一番頼れるのは、ドラッグストアで買ったあの使い捨てカイロ。
温もりこそ、希望なのだ。
それにしても、4月5月というのは天冲殺の月である。
そう聞いて、私はある種の納得を得た。
天が“お前の足を止めてでも、立ち止まって考えろ”と言っているのだと。
そう思えば、この痛みも意味のあるものになる。
腰は体の中心。
きっと「立ち方を変えろ」「人生の軸を見直せ」と教えてくれているのだ。
腰が痛い。
けれど、私は今、少しだけ新しい自分になっている。