そもそも論ですが、JWにとって集会って結局何なの?という記事です。
実際的な位置づけとしては、信者の「霊性」を計る尺度としての側面がかなりの部分を占めていると思います。
出席率はどうか、プログラムへの貢献度はどうか、集会前後の様子はどうか、子供の管理はどうか・・。
いわば、毎週テストされているのです。
集会を通して「最高の教育」を受けている、とよく言われますが、そうでしょうか。
集会が教育の機会なら、生徒つまり聴衆の側からの質問の時間がまったく許されていないのはなぜですか。
一人ひとりの理解度に合わせて対応して、一緒に疑問を解決していくのが教育の基本ではないでしょうか。(まして子供からお年寄りまでいるのですから。)
そこは出席者本人の責任だと丸投げしておいて、テストばかりするのが最高の教育ですか?
これも演壇からよく言われることですが、「注解はアンサーではなくコメントです。皆さんの自由な注解をお願いします。」という発言。
教育活動をしているつもりなら、きちんと正解に導いてもらわないと困ります。そういうと、「正解は資料を読めば載っています。」、あるいは「皆さんが予習している前提ですから。」と言い訳が出てきます。やっている事が中途半端です。
実は長老や奉仕の僕の間では、集会は「崇拝」であるという側面がとても強調されます。
「鼓舞しあう」「励まし合う」事は、集会の主な目的ではなく、あくまで副次的な要素であるとはっきり言われます。
なので、自己都合で集会を時々休む人はいわば「崇拝」をおろそかにしているため、模範的ではないと言われて資格を削除されます。
しかしその際、根拠として挙げられるのはやはり(ヘブ10:24,25)です。
『 また,互いのことをよく考えて愛とりっぱな業とを鼓舞し合い,25 ある人々が習慣にしているように,集まり合うことをやめたりせず,むしろ互いに励まし合い,その日が近づくのを見てますますそうしようではありませんか。』
その聖句が集まり合う目的として挙げているのは「鼓舞し合う」「励まし合う」事だけです。すごく矛盾していませんか?(ついでに言うとテモテ第一3章の監督と僕の資格についての記述でも、集会を休まないことは求められていません。)
このように、「集会を一度も欠席してはならない」という教理のもとになっている聖句は(ヘブ10:24,25)であるにもかかわらず、現実はその聖句で意図されていないこと(組織からの最新の教育を受ける・歌と祈りと注解で神を崇拝する・自分が霊的な物事に従順
であることを表明する)が優先されていることになります。
聖書の教えを踏み越えるこの間違いこそが、集会の閉塞感や倦怠感を増幅しているのでしょう。
(詩編 127:1, 2) 『 エホバご自身が家を建てるのでなければ, 建てる者たちがそのために骨折って働いても無駄である。 エホバご自身が都市を守るのでなければ, 見張りが目覚めていても無駄である。 2 あなた方が早く起きるのも, 遅く座るのも, 苦痛と共に食物を食べるのも,それはあなた方にとって無駄なことである。』
集会への出席を優先するためにこれまで何度も転職を繰り返してきた結果、まともに財産と呼べるものは手元に何も残っていませんが、これでもし自分が断絶して、何とか築き上げてきた人脈さえも失うとしたらあまりにも悲惨です。
集会への毎回の出席がクリスチャンの最低条件のように言われますが、そうしないと救われないとしたら新聞配達者や牛乳配達者、年金生活者や生保受給者、寄付生活者等でなければ救われるのは難しいですね。
警察・消防・病院・自衛隊・発電所・鉄道・農家・漁師…
誰かが必ず日曜日も働いてくれているから、この社会は廻っているし、JWは集会に行けてるだけでしょう。
仮に集会への出席が救いに不可欠なら(それが神のご意志なら)、どんな職業の人でも出席できるような集会のシステムでなければ真の宗教とは言えません。
そう思われませんか?