ゼロと無の神秘 | humanite88

ゼロと無の神秘

ゼロ、この悩ましき数。人類に与えられた最大の難問、「神は存在するか」の問いの前に立ちはだかった神秘の数である。

 

ヨーロッパで言うグラウンドフロアとは、地上階、つまりゼロ階で、英国は「G」、ドイツは「E」と表示されるという。次の上の階から「1階」、「2階」、「3階」と続く。

 

エレベーターでは、地上階を「0階」と表示するようだ。

 日本やアメリカでは、地上階は「1階」である。当然、次の上の階から「2階」、「3階」、「4階」と続く。つまり日本の2階は、ヨーロッパでは「1階」になる。

 

ちなみに9,11テロの「グラウンドゼロ」は「爆心地」の意味だという。

 

原点が、0なのか、1なのか、という問題はどこから来たのだろうか。ゼロ階から始まるのか、1階から始まるのか、は文化の違いだけなのだろうか。

 

ゼロは、インドで発見された。あの強烈な太陽の熱が「なければいい」という発想がゼロの原点だと聞く。

 

ゼロは不思議な数だ。日本語のゼロの言い回しには、ゼロ、零、無、とある。 試験は、れい点でゼロ点とは言わない。零とゼロは違うらしい。


 Wikipediaによれば、「零点(れいてん、ぜろてん、zero)とは、ある関数 f によって、0 に移される点、すなわち f(z) = 0 を満たす z のこと。複素解析や代数幾何学などにおいて、方程式の解や根と呼ばれるものを幾何学的に取り扱う際に、しばしばこの表現が用いられる」、とある。


 コンピューターは、0と1の2進法による高速演算で成立する。この場合のゼロは、無ではなく確実に存在する。しかし、0と1の間には何も存在しない。

 

日本仏教には「無」という概念がある。「無」という概念は「空」にも通じる。無は、有の反対表現で、空はうつろで実体がないことを言う。

 

日本仏教の根本命題は、「空、縁起、無常」で、自己よりも他者の救済を究極の目標とする。自己とは実体がなく(空)、他者とのかかわりの中で(縁起)、常に移ろいゆく(無常)、ものとする。

 

 自己とは、時の移ろいと他者とのかかわりの中で、ある時は「有」、ある時は「無」なのだ。

 囲碁、将棋、スポーツ等、大勝負の大局を制するものは、自己の私利、私欲を超えた「無心」であるという。


 政治に携わる者、国を預かる者たちは、公をわきまえ、虚心坦懐、無心でなければならない。自己を捨て去り、超えた所に「礼」が生まれる。

 

「礼」とは、まさに自己を「無」(零)にした先にある「礼儀」なのだ。民主党の面々は、総理をはじめ礼を欠く不遜な者たちが多い。

 

小沢切りには、礼も理屈も大義もない。菅直人は、国よりも、党よりも、自己を優先する。総理の椅子に邪魔になるものは切り捨てる。「政治と金」の大義にかこつけたこの無節操さが、総理の資質、資格を問はれる所以であろう。


 財源”無き”亡国予算、日米同盟、領土問題等、国家の信用と国益を貶めた菅総理こそ問答”無用”、即刻退場が大義であろうか。



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