ユマニテ会のユニッチです。春ですね。

皆様ゴールデンウイークを満喫されていらっしゃるでしょうか。

4月21日は浅草へみんなで新年度会にいってまいりました。

 

お天気もよくて、浅草もすごくにぎわっていました。

浅草寺にみんなで参拝し、駒形でどぜう鍋を食べて、神谷バーで電気ブランをいただきました。今年もみんなで元気に学べますようにと祈願してきました。

今年は通常のメニューに加え、新たにフランス文学・フランス哲学入門編としてアルフォンスドーデーの最後の授業を原語でやっていく予定です。ほとんどのメンバーがフランス語は初心者ですが、楽しくやっております。興味のある方はお待ちしてます!

 

では1月のユマニテ会よりご紹介しますね。

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今回のユマニテ会は、まず『徒然草』の第74段です。

【蟻の如くに集まりて、東西に急ぎ、南北に走る人、高きあり、賤しきあり。老いたるあり、若きあり。行く所あり、帰る家あり。夕に寝ねて、朝に起く。いとなむ所何事ぞや。生を貪り、利を求めて、止む時なし。

 身を養ひて、何事をか待つ。期する処、たゞ、老と死とにあり。その来る事速かにして、念々の間に止まらず。これを待つ間、何の楽しびかあらん。惑へる者は、これを恐れず。名利に溺れて、先途の近き事を顧みねばなり。愚かなる人は、また、これを悲しぶ。常住ならんことを思ひて、変化の理を知らねばなり。】

 

私は中学2年の国語の時間にこの文に出会ってショックを受けました。これが、「人生とは何ぞや?」という問いになり、以後ずっと心の底に地下水のように流れ続け、数学、物理、化学が得意で絶対理系に行くと思っていた私を後に哲学科に行かせる最大の原因となります。

また駿台予備校に通っていたとき、私の人生を決定づける方に出会いました。英文解釈の奥井清先生です。先生はいかにも楽しそうに授業なさる。受験生に英語教えるっていうより、人生について語ってるんだな。それで、まだ理系だった私だけど、「自然科学も面白いが、人生について考えることには次元の違う面白さがあるな」と思い、180度転換して名古屋大学の文学部哲学科に進学しました。こうして、『徒然草』の投げかけた「人生とは何ぞや?」という問いに一生関わることになった訳です。余談ですが、私が、哲学の教授になったとき、予備校に奥井先生(因みに、先生は東洋大学の教授です)にお目にかかりに行きました。それが生前の先生にお会いした最後になりました。

 

さて討論しましょう。

 

質問:「いとなむ所何事ぞや」とはどういうことでしょうか。

先生:「人生とは何ぞや」。ということでしょう。でもそれ解ったらもう死んでもいいでしょう。(笑)。結局、我々、ユマニテ会の最終目的はそれじゃないの?「人生とは何ぞや」を問い続ける会なんですよ。そして答えは得られない。哲学の問題の場合はね、答えより問いの方が貴いの。「神は存在するか」、「自由意志は存在するか」、「幸福とは何か」とか。そして、極端にいえば、答えはどうだっていいんだ。

それは確かに非日常的な問題だよ。だけど、そういう非日常性をいつも頭のどこかに持っていることが、我々の人生をより良きものにするんじゃないだろうか。

 

質問:今日より明日、明日より明後日の方が成長している、死ぬ間際に幸せだなあと思えたらそれがよいのでしょうか。

先生:私たちは、自分の哲学を作るといっているが、それは、そんな簡単に出来る訳じゃない。生きていく過程の瞬間瞬間に作られてゆき、死ぬとき、未完成のまま出来る訳。かといって若い時の思想がつまらないということではないよ。

ところで、当時の出家は今ほど大したことではなくて、食べることにも困らない人がしたんだと思いますよ。吉田兼好は、結構人生を楽しんでいると思う。煩わしい勤めから解放され、自分の好きな学問等に没頭するために出家したんじゃないかな。上流階級だから出来た訳で、普通の庶民に出来ることではありませんが。

 

質問:「惑へる者」の意味が分かりにくいです。

先生:私は「惑える者」がいいな。孔子は『論語』の中で、自分で自分のことを「学問に夢中になっては食事も忘れ、道を楽しんでつまらぬ心配事を忘れ、老いが近づいているのも気が付かないでいる。私はそういう人間だ。」と言っている。吉田兼好に言わせれば、孔子は「惑える者」となりそうだね。仏教的世界観が根底にあるから。こういう表現になるのかもしれませんね。

 

質問:「これを待つ間」についてですが、待たなくてもよいのじゃないかと思います。

先生:そこは私も同意見です。人生っていったい何かを待つものかい?待つものじゃねえだろ。おれはそこを指摘したかった。おれも待ってやしないよ。

 

現在のお坊さんの修行について。

お坊さんは何のために修行しているのか。

自分が変わりたいと思っているから修行しているのか。

悟りとはなんなのか。なんで悟らなきゃいけないのか。

自分が楽で得して自分が気持ち良くいられれば良いのではないか。

 

先生:おれも、「哲学だ、なんだ、かんだ・・」と言っているけど、結局のところ自分が「気持ち良い、かっこいい」と思うスタイルで生きたいと思っているだけなんだ。そもそも、人が、どんな在り方を「気持ち良い」とか、「かっこいい」とか思うかは、その人が積み重ねてきた仕事とか経験とか学問とかによって非常に違ったものになるだろうね。そこのレベルを、私の場合は、学問して学問して高めていくこと、これっきゃねえと思っています。

吉田兼好の世界観は、変化の理、つまり仏教的無常観が底流にあるようです。そして、彼の場合、人生の最後を待つという風な言い方をしている。

私の場合は、同じ無常観でも、「何かを待つ」という思想は無く、「一瞬一瞬すべてが尊いんだよ」という意味で無常観をとらえています。「葉隠武士道」が影響を受けた無常観かもしれません。「一瞬一瞬に心を込めて生きなさい。その積み重ねが素晴らしい人生を作るのです。」ということです。私は、現役の教授だったとき、授業に行く前に、研究室で水を一口飲んで、死に水ですね、教室に行ったものです。

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現在はアルフォンスドーデーの最後の授業を原語で読んでいます。参加の方もほとんどがフランス語初心者です。

気になる方はお気軽にご参加くださいませ。

ではまた次回ですね。