皆さんお元気ですか? ユマニテ会のゆにっちです。

今年も残すところあと1か月になりましたね。

私はまだまだ今年やり残したことがたくさんありすぎてどうしよう、、、と思う毎日です。

 

でも今年もよく勉強はできたかなと思っています。

読み残した本やDVDもありますが、あと1か月またまた頑張って学んでいきたいと思います。

 

忘年会の企画を今やっているのですが、今年はハーバード白熱教室のDVDを使って討論をやってみようかと思っています。うまくいくかわかりませんが、頑張ります。

 

考えることに意味があるのだから、何か皆さんに持ち帰っていただけるものがあればよいかなと考えています。

 

また後日お知らせできたらよいかと思います。

 

10月のユマニテ会より

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マザー・テレサがカトリックの聖人に列せられたというニュースをやっていました。古いところでは、聖フランチェスコ、聖ドミニクスなどいますが、聖人になるためには、いくつか条件が必要で、その一つに奇蹟を行ったか否かというのがあるそうです。医療行為を行わずに誰それの内臓の病気を治した、とかいうことをもって奇蹟とされたそうです。それを聞いて私は、カトリックは、何と未だに荒唐無稽、非科学的なことを後生大事にしているのかと呆れました。奇蹟なるものも今では科学的に根拠あるものとして解明されつつあります。しかし、カトリックにとっては、奇蹟が非科学的である限りにおいて尊いようです。
だけど考えてみてください。マザー・テレサの生涯そのものこそが何にもまして偉大な奇蹟ではありませんか。カトリックの反科学性、非科学性には長い歴史があるけれど、いい加減にしたらどうだと言いたい。科学の成果をすべて受け入れてなお尊い愛の哲学がカトリックにはある。そのことにカトリックは自信を持っていいと思います。

 

『葉隠聞書』より
◆水増せば船高し
【器量者(才能のあるもの)又は我が得方の事は(自分の得意なこと)、むつかしき事に出会ふほど、一段すすむ心になるなり。迷惑がるとは、いかい違ひぞとなり。】

困難がきたら、必死でやるでしょうから普段ないような力で臨みます。そうすると乗り越えられるんですよね。だから、困難は喜びなんですね。
「得方の事」とありますが、人生においては得意なことでなくても、やらなければならないことがたくさんありますが、そういう場合でも同じだと思います。
人間の能力は、努力していれば、なだらかに上がっていきますが、私は階段状に急激に上げるのが好きです。壁にぶつかったら、必死でやる。すると、自分でも思いもよらぬ力が出ます。そして、困難を乗り越えることが出来ます。そのとき振り返ってみると、能力が急激に上がっているのに気が付きます。例えば、人から頼まれたことで、そんなこと出来っこないと思うようなことでも、即、「はい!やります。」と応える。考えたら、逃げること考えるから、考えない。私は哲学をやっている人間だから、「考えること」が商売ですけれど、「考えないこと」の大切さもよく分かっているつもりです。必ずしも考えればいいってもんじゃない。ともかく、引き受けてしまったら死んでもやらないといけないから必死でやる。すると普段は出ないような力、思ってもいないような力が出ます。すると、出来てしまう。ふりかえってみると一段レベルが上がっている。その繰り返しで壁にぶつかる度に成長することが出来ます。


◆さても、むなしい世の中ではないか
【道すがら考ふれば、何とよくからくつた人形ではなきや(人間とはなんとよくできたからくり人形ではないか)。糸をつけてもなきに、歩いたり、飛んだり、はねたり、言語(もの)迄も云うは上手の細工なり。(何とうまく出来ていることか)。来年の盆には客にぞなるべき(それでいて、来年のお盆には死んでお客さんとして迎えられるかもしれない。)。さてもあだな世界かな。忘れてばかり居るぞと。】


これは大問題です。我々は、自分の自由意志で色々なことを選択しながら生きていると思っているけれど、もしかしたらそうではないのかもしれないとも考えられます。これは心理学の研究分野になりますが、我々の行動の本当の動機は、深く心理分析してみると、自分が意識しているのとは別のところにあるというのです。そうすると、この『葉隠聞書』の言うように、我々は「からくり人形」だという認識も成り立ちます。これはまた、西洋の哲学者たちが何百年も考え続けてきた「自由意志は存在するか」という問題、さらには、「神は存在するか」という大問題にもつながっていくように思います。ヨーロッパ中世(紀元後の500年~1500年頃)、キリスト教の教えが人々の生活の隅々まで入り、人間の行動の一切は神が決定している、と思われていたとき、そういう中ではたして自由意志は存在するのかしないのか、それが哲学者たちの大きな問題でした。こういう問題は、問題そのものをきちんと分析すれば、単なる言葉の問題として自然と解決されたり、あるいはその問題そのものがナンセンスであったりすることになるかもしれませんが。ともかく、『葉隠聞書』のこの条はいろいろな問題を含んでいて興味は尽きません。

 

討論内容は省略します。

 

ラッセル『人生についての断章』より
◆他人の身になって考えること
他人の身になって考えることは、何のためらいもなく良いことだと我々は思いがちだが、それについてラッセルは吟味している。
【すべての感情は、理解しようとする対象について好意的であろうと悪意的であろうと必ず判断をゆがめてしまう。我々は他人のしていることについてその人を愛したり憎んだりしない限り、あまり他人に感心をもたない。他人について興味を持たなければわざわざ他人について知識を求めようともしない。だが愛したり憎んだりする限り、我々が他人について得る情報は間違っていることが多い。このことは特に国家間の知識について言える。ここに民主政治のむずかしさの一つがある。学校をでると、外国の知識を身に着けるのは新聞からであり、我々の外国についての知識は、我々の偏見と感情を肯定するようなものに限られてしまう。自国優先の民主主義の範囲内では国際政治をどのようにしたらよいのか、私にはわからない。】

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討論に時間が足りなかったです。考えるべきポイントもたくさんありました。

人間は愛しているから相手に関心を持つのに、それゆえに見えなくなることもあるんですね。

 

みなさんも興味があったら、のぞきに来てください。

お待ちしております。場所にもよりますが5人程度集まっていただける場合には、出張ユマニテ会も企画いたします。