< リベラル 戸田の会 >~寛容と対話の共生社会へ                   代表 川田のぶやす -2ページ目

< リベラル 戸田の会 >~寛容と対話の共生社会へ                   代表 川田のぶやす

戸田市の政治状況をもとに日本国および日本人の本質を明らかにしていきたいと考えています

 <自己責任>というのは、なるほど個人の自律を促し、自己決定の意義を浸透させるうえで極めて有意義な言葉だと思います。甘えは忌避されるべきものだ。これが大人の在り方だ。などという発言を世間ではよく耳にしますが、これらの言葉を正当化する考え方として実際、重宝に使われているのがこの自己責任原則ではないかと思われます。

 しかし、この言葉はあまりにも一方的な価値の強調に利用され過ぎてはいないでしょうか。この原則が、仮に社会の様々なしがらみの中で生きていかざるを得ない個人に対して、本人を取り巻くすべての結果につき無限定の責任を負担させることまで要求するものであるならば、それは間違いではないでしょうか。ましてや、政府の政策の失敗のツケまで<自己責任>の美名のもとで背負わされるのは全く勘弁していただきたいものです。結局は、政府が負うべき責任の転嫁、隠蔽、もしくは、政府の無責任を正当化させる方便という役割を果たしてしまっているのがかかる原則ではないでしょうか。

 刑法という法律では、いわゆる「行為責任」として、自己の意思によって決定した行為が一定の法益侵害を発生させた場合のみを罪に問うことになっています。そこでは、自己の行為から、社会的に見てもっともだと評価できる結果についてのみ責任が問われることになっています。つまり、自己の行為とある結果との間に特定の具体的な関連性がなければ処罰されないのです。

 もちろん社会一般で言われている自己責任原則と、刑法上の責任原則をまったく同一視することはできません。それぞれの意図する目的が異なるからです。しかし、両原則の根源は共通ですし、それが表現する内容も極めて重要な共通のものがあります。それは何かと言いますと、いづれの原則も、問われる責任の範囲・程度には限りがあるということです。

 すなはち、自己責任原則とは、<問われるべき責任には限界がある>ということ、<個人では背負いきれない責任まで負担させられることはない>こともその内容として当然含んでいる原則なのです。小生がかつて読んだ本の某哲学者は次のようなことを言っておりました。

 

≪自らの責任を問われる必要のないことから受ける苦痛(不条理な苦痛)をできる限り少なくしなければならない≫

これが歴史の進歩を図るための指標である。

 

 僭越ながらご一考のための参考にして頂ければありがたいです。