強要されない挨拶が一番いい!

 

 

 最近感じることがあります。それは、学生であろうと教員であろうと、挨拶ができない人が増えているように感じるのです。逆に、無意味で機械的な挨拶は増える一方・・。部活動の生徒の挨拶、地下鉄の車両の中で他人にぶつかることは平気なのに先輩だけにはわざわざ移動してまで挨拶。コンビニに入ったときの人の目を見ないでする挨拶。学校の中で交わされる強制的な挨拶。疲れていないのに「お疲れ様です」という職場の挨拶・・・等々挙げればきりがありません。

 ご近所付き合いでも同じ。挨拶をしても返してくれない人、明らかに視界に入っているのに視線を逸らして挨拶しづらい雰囲気を作っていく人。このような人たちを目にする度に、本当に悲しい気持ちになります。

 挨拶は何のためにするのでしょうか。大昔は「私はあなたの敵ではないよ」という意味で始まったのが挨拶だ、とする説があるようですが、人と人との出会いは挨拶に始まり挨拶に終わる。出会いも別れも挨拶が付きものだと思っている私にとって、無言で現れたり、無言で居なくなることは、他人に迷惑がかかるときだけだと思っています。

 例えば、授業中にトイレに行きたくなった学生が、「先生トイレに行ってもいいですか」と言ってきます。これを止めるわけにはいかないでしょう。でも、授業は止まってしまいます。「いいから、後ろのドアから静かに行きなさいよ、いちいちお伺いを立てなくてもいいから、言わなくても分かるし」と私は言葉を返します。学生はキョトンとしますけどね。だって、勝手に退席することを咎める方もいるそうですから。それは時と場合によっては、引き留めることもあるでしょうが、状況を見ればわかるでしょう。

 一番私が気になるのは、「おはよう」「こんにちは」「さようなら」「センセートイレへ行ってもいいですか」などの挨拶というか、ミニマム・コミュニケーションの言葉を強要することです。自然と口から出る言葉が挨拶です。考え抜いたあげく、意を決して話す言葉が挨拶・・・ではないと思います。

 

 

  日本に敬語の勉強のつもりで来たのに、実際は・・・

 

 先日、韓国からの交換留学生が帰国するのでお別れ会をしました。日本に来た理由の一つには、生の敬語をきちんと身に付けたいという希望があったようです。しかし、私のゼミに配属された留学生は笑いながら「センセーのゼミになって、一番印象的だったのは、『♪だよね〜』っていう歌でした。本当は敬語の勉強をしようと日本へ来たのに、身についたのは、日本語学校では絶対に習わない言葉でした(笑」とのこと。私は「それでこそ、本当の留学なんじゃぁないの」と返します。「全然いい〜」なんて、日本語の文法としてもおかしい言葉を、平気で学生は使いますから。「めっっちゃ」なんて言葉は序の口で、「ワンチャン」「ガチ」など、日本人でも中年層以上の方はご存じないような言葉も、留学生は覚えていきました。

 まさに言葉は生き物。そして、日本語英語の多さにビックリ。これが韓国人留学生の言葉でした。そして、「日本にいると、頭の中の思考が日本語になっている自分に気づいた」のだそうです。瞬間的な五感の感覚に対して、何語の言葉が出るかで、今の言語状態がわかります。

 にしても、河本研究室の河本センセーは、敬語であろうとタメ語であろうと、その発言内容を気にするタイプですから、あんまり立場の上下関係とか年齢は気にしないということは、留学生にも伝わったようです。まぁ、もちろん私も一応一介の大人として、表面と裏面の言葉遣いはしているつもりですが、日本語教師にはなれませんね。だって、学生と「メッチャ、授業行きたくないわ〜この授業苦手なんだよね〜」などという言葉を発してしまいますから。(もちろん、そうは言ってもキッチリ授業はしますよ、授業料いただいていますからね)

 こんな私も、突然「教授」なんて呼ばれても、全く自覚症状のない56歳になろうとしています。そう言えば、私は教員になった22歳から一度も自分のことを「センセー」とは呼んだことがないなぁ・・・と、大雪(おおゆき)の雪投げで激痛の走った腰を擦りながら、久々のブログを書いているのでした。

 

 

どうぞこちらのブログもご覧ください。私のパパ友(失礼!卒業生のお父様)のブログです。