狂気じみた哲学と死にかけの世界
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お前は誰だ!?


都市伝説や怖い話でよく見かけるけど、

鏡に映る自分に向かって「お前は誰だ!?」って言い続けると気が変になるというおはなし。

危険度は高めらしい。

オカルト云々というのは別としても、人間の心理に強く影響を与えてしまうらしい。

鏡に映る自分は実体の自分ではないことは確かなんだよね。

でも誰だ誰だ言い続けていると、まるで実体を持つ自分が鏡の向こうに実際にいるような錯覚に陥ってきて、じゃあ言い続けている自分は誰になるの?って感覚になるのだと思う。

あくまで私の考えなのだけれども。

いきなり目の前に自分と姿形が全く同じ人が現れたら、それは気持ち悪いもので。

たぶんそんな感じ。

やっても良いことは無い、これは確かなんだわ。

好奇心でやりたいと思っても、自我を保てなくなったらシャレにならない。

だから私はやらない。やりたくもない。

と、ここまで書いてきたわけだけれども…

そもそも自分って何だと思わない?

高校の先生に問われた内容なんだけど

「昨日の自分と今日の自分は果たして同じなのか?」

「寝る前の自分は本当に記憶通りなのか?」

「寝ることが実は死ぬことだったら?」

確かそんな内容だったような気がする。

確かに記憶が捏造だったら、私達は目覚めた瞬間から眠りにつく瞬間までが寿命ってことになるよね。

個人的な感情で言わせてもらうと

「これはまた極端だなぁ。」

私達は、こんなことを問われても、「死」とは認識しない。

それはつまり、昨日の自分と今日の自分は同じだと認めているということだ。

でもあまりにも当たり前のように認めている。

幼き頃からそれが当たり前のようにあったからなのだが。

なんだか締まりが悪い。

テーマから90度くらい話が逸れてしまった。

…これが限界ということでまた次の機会にじっくり考察していきたい。

すまない。

現実と夢とその夢と…

もし君の見ている世界が、全て夢であったとすれば?

痛み、刺激、全てが計算しつくされた夢であったならば?

もしかしたら、目を覚ましたあなたは、いままで見てきた夢の中では到底理解出来ない世界にいるのかも知れない。

二次元、四次元といった次元という言葉では表せないのかも知れない。

けれども、これって根本的には死後の世界とあまり変わらないんだろうね。

そもそも死後の世界がどういうものか、証明されてすらいないんだもの。

主張がいくらあろうが、証明されないのだから。

逆に言えば、夜に見る夢も私達の言う現実もすべて本当のことなのかも知れないってこと。

存在しなければならない現実が一つしかないという法則を証明していないのだし。

まぁ妄想の域を出ることは限りなく不可能に近いのだけれども…


夢の中で夢を見るという夢を見たから書きたくなっただけです。

ブログを始めてみて・・・

このブログは自分の考えをめちゃくちゃストレートに述べちゃっているけれども、異なる意見があったら遠慮なくコメントして欲しいです。

また、文章がおかしくなっちゃってる所も多いと思う。なにせ表現力が乏しいもので…(汗)ご指摘いただけると助かります。

出来るだけ多くの人に理解しやすいように、また過剰な表現が悪影響をもたらさないよう時々修正すると思います。あと正しい日本語に修正するのも、ね(汗)

しかし周りの人はこんなこと考えているなんて思いもしないだろうなぁ。

「死にかけ野良猫って、平和だよね。羨ましいー。」

とか言われておりますが、考えていることは物凄く危険ですから←

嫉妬でドロっドロな女の子のほうが全然人間らしくてかわいいくらいだよ←

これ書いているうちに危険度が増しているような…きっと気のせい気のせい。

生きる意味

「人類」としては、はっきり言って生きる意味など特にない。

偶然生きようとする生命体が生まれ、進化した結果なだけだと思う。

全て、偶然なのだ。

だから、無い理由をどれだけ探そうとしても見つからないのだ。

(これを言ってしまえば、神への冒涜だの何だの反感を買うかも知れないけれども…)

「偶然などない、あるのは必然のみ」という言葉をどこかで聞いたことがあるが、偶然でも必然でも変わりない。

たとえ必然であっても、理由が伴うわけでも無い。

偶然=必然

「人類」は最終的な目的があって生きているわけではない。

地球上に生命を繁栄させるためだろう、と言ってもそれは理由にはならない。

地球はそこに有るだけ。

たまたま生命が繁殖するのに適していて、それが他の惑星と違う。

それだけ。

生命が生まれることは偶然であり、生きながらえようとする意思が生命を続けさせている。

理由は自己に回帰する。

生命は、生命のために生きている。

決して地球のためなんかじゃない。



絶望したかい?

今まで私達は何のために生きてきたんだ、って絶望したかい?

それとも、狂ってると思ったかい?

もしそう思うなら、あなたはまだ正常だ。



でもわたしの言いたいことは、これだけじゃない。

「人類」から「自分ひとり」に焦点を当てよう。

私達は、「仲間」のために生きている。

もし地球上に自分以外に生命体が一つもなく、繁殖出来ない状況になったとしよう。

それでも、「自分」のために生きようと思えるか?

恐らく絶望感に見舞われるだけだろう。

理由は簡単。

生命維持する理由は生命の繁栄のためであり、生命は維持を理由に繁栄する。

さっき書いたような状況は、回帰する理由をぶった切ってしまうということ。

生きる意味を失う、ということである。

だから、わたしは「仲間」のために生きるという答を出した。

たとえ自分が子供を作れない身体だとしても、「仲間」に何かをしてやれる。

どういう形であれ、「仲間」がいることで私達は生きる意味を持つことが出来るのだ。

もし「仲間」が犬だったとしても、犬のために生きようと思うだろう。

犬も、あなたのために生きようと思うだろう。

「仲間」≠「人間」

そう思わないかい?

私達は「仲間」のために結果的に「自分」を生きながらえさせている。

そう思わないかい?

そう思わないかい?

そう思わないかい?

そう思わないかい?

そう思わないかい?

そう思わないかい?

だからあなたも仲間は大切にしなさい。

殺すことは、自分の存在理由を消すことに近づくことに繋がるのです。

生かすことがあなたの存在理由なのです。

家族(子供視点)

この記事は、「人間関係」の本質を見つめたうえで考えたことを述べていきたい。


まずは「家族」を例に挙げよう。


小さい子供が生まれてまもなく離婚し、母に引き取られたとしよう。


その人が不自由さを感じることなく幸せに育ったとしよう。


母と非常に深い絆を築いたとしよう。


ある日その子供に、父がいる、ということを告げたとしよう。


恐らくその子供は、父という存在を知りたがるだろう。


たとえそれが、憎しみ、愛情・・・どんな形であってもだ。


もし現状が好ましくない環境であれば、環境を変えられるという希望を抱けるということで興味を抱くならば合理的である。


だが何故不自由さを感じることなく幸せな状況で、それでも父という存在を知りたがるか?


父、それだけで興味を持つ。


父という言葉だけで、興味を持つのだ。


父という存在を欲する、それはどの心理から来るものなのだろうか?


逆もまた然り。


この日本という国は父と母、どちらも存在するのが当たり前、という考えが無意識に刷り込まれている。


もし、だ。


もし他の家族が自分と同じように母だけであったならば・・・父という存在に興味はあまり抱かなかったのだろうか。


父と母、子供にとってはどういう存在なのか?


「血がつながっている」という言葉だけで甘えたり愛情を求めたりするのだろうか。


これは、本能から来るものなのだろうか?


それとも、「子供」と「親」という言葉が存在するから?


・・・家族は、意外と言葉という先入観で成り立ってしまう関係だ。


「家族だから、仲良くしなさい」、「家族だから、大切にしなさい」


いつの間にか家族という関係にあるだけで、仲良くしなければならないという強迫観念が根強くこの社会に浸透している。


実際は立場が家族であっても他人のような感覚を持ち合わせている人もいる。


そして、仲の悪い家族だって存在するだろう。


「家族だから甘えるべき」、「家族だからなんでも言える」という考えだと、まるで


…家族を「家族」という言葉だけで済ましているかのような。


だからといって家族を否定しているわけではないし、実際わたしも家族という言葉は好きだ。


ただ、改めて考えてほしい。


あなたにとって今の家族は何か。


本当に家族という言葉だけの関係なのか。


「実は家族という言葉に救われていただけでした」


「確かに家族だけれども、たとえもし血がつながっていなくとも今のような素晴らしい関係を築けると思う」


など、辿り着く答えは一つだけではない。


あなたにはあなただけの答えがあり、それを見つけたならばそれを大切にして欲しい。


そして、これからは家族とどう接していくかも考えてほしい。


どうか、あなたが後悔しない関係を築けることを願って。