3月は、なんとも言えない月。

パパの誕生日があり、フーラの命日があり、サーラの誕生日があるのです。

2018年3月30日にフーラが旅立ち、3月は切ない月になりました。

それから半年後、サーラを迎えることになりました。

そして、フーラの命日の翌日が、サーラの誕生日という巡り合わせにも出会いました。


(今日のサーラ)


フーラの死から5年が経ち、日々の生活のなかで痛みを感じることはなくなりました。

今年も、3月30日にはフーラの死を悼み、31日にはサーラの生誕を祝うのです。

家の中では、枕元にも、リビングにも、トイレの中にもフーラがいます。

写真たての中のフーラがいます。

時おり話しかけたりもしますが、視界の中にいてくれるだけで平穏な気持ちになるのです。

つまり、生きたフーラのいない日々が、僕の日常になりました。



(今日のサーラ)


それでも、、、

桜は、僕に痛みを与えます。

桜の開花が近づくと、あの痛みを思い出すのです。

フーラを看病した日々。

最後の日々が、僕に与えた試練。

火が消えそうなフーラを、多摩川の桜の下に連れ出した日曜日。

歩くことのできないフーラを抱いて、満開の桜の下に立ちました。

あれは、正しかったのか。

今でも胸が痛みます。

フーラにとって、桜は何の価値もなく、眩しさに細めた目を見ていると、降り注ぐ陽光がフーラに苦しみを与えているように感じました。

パパは、ただ、最後の桜をおまえに見せたかっただけなんだ。


(今日のサーラ)


そんなこともあったよな、、

また、そういう気持ちの甦る季節がやって来ます。

桜は儚くて美しいけれど、その儚さよりも、美しさよりも、深く沈めたはずの想いが胸に刺さるのです。



(今日のサーラ)


できることなら、、

桜は、咲くことも、散ることも、しばらくお休みしてくれないかな、、

それが、一番楽なのにな。

それが無理なら、、

一年に一度くらいは、涙を許してあげればよいのでしょう。