(今朝のサーラ)



「迷信」という言葉に、なぜか懐かしさのような不思議さを感じる。

今のように、多くのものが解き明かされていなかった時代に、人を踏みとどまらせ、生かすための知恵であったかもしれない言葉。

あるいは、人を恐れされ、束縛したかもしれない言葉。

霊柩車を見たら親指を隠せ、とか、、

すでに両親を失ってしまった自分がいて、そして、いわゆる昔風の霊柩車などこの東京で見なくなってしまって、どれくらい経ったのだろう?

いま、昔風の霊柩車が都心を走っているのを見たら、外国人観光客が写真を撮るんじゃないかと思ってしまう。

この時代に、迷信と言われるものを読むと、ある種の可笑しささえも感じる。

だが、それを無意味な過去の遺物と笑って切り捨てるのも惜しまれるように思うのだ。




今の僕らは、いったい何を見たら驚くのだろう?

もし、僕らがかつてパソコンもスマホなかった時代に今のスマホを見たとしたら、どんな驚きを感じたのだろう?

ウォークマンにカセットテープを入れて、音楽を聴きながら初めて街を歩いた時の驚きや世界の輝きを、それらは凌駕するのだろうか?

今から数十年もしたら、僕らが蒸気機関車を懐かしむように、ガソリンで走るクルマを、みなが懐かしむようになるのだろうか?

いま、多くのことを知っていると思う僕らの暮らしが、迷信の中で生きていた時代の人々の暮らしと語られる日が来るのだろうか?

そして、あの時代には郷愁を感じるなどと懐古されるのだろうか?

なぜ、こんなことを考えたかというと、僕はブリティッシュハードロックと言われるジャンルのロックミュージックが好きだったことを思い出したからだ。

子どものころ、人生は長いと思っていた。

だが、人生は短いことに気づいた。

だから、好きなことやろうぜ。

転がる石のように。

想い出が、そう語りかけてきたのだ。