(今朝のサーラ)
今日も、半袖のTシャツで歩きました。
今朝は9時まで、サーラとゆっくりと眠り、9時半にお散歩に出ました。
半袖だと寒いかな?と思いながら表に出たら、一瞬涼しいと感じただけで、まったく問題ありませんでした。
道には、枯れ葉が舞い落ちています。
でも、全然寒くない。
うれしいような、なにかちがっているような、、
僕が子どもの頃、東京はもっと寒かったな、、
秋になると、寒くなるのと比例して、焼きいも屋さんの軽トラックが、どこからともなく街に現れたりしてね、、
冬になれば、霜柱ができて、僕らはその上をザクザクと音をたてて歩いたものです。
水たまりが凍ると、上に乗って割れるか試したりして。
しもやけが手足にできて、痛くて、痒くて、、
今の子どもたちは、しもやけになったことがあるのでしょうか?
なんか、なさそうだよね。
しもやけにならなくなって、子どもたちの幸せはもっと増えたのだろうか。
温かい部屋でゲームをやり続けることって、懐かしい想い出になるのだろうか。
きっと、そんな心配をしている時点で、正真正銘のおじさんなんだろうな。
でも、パパは東京でも川でザリガニを採ったり、雑木林でクワガタを採ったりすることができた時代を生きられて、幸せだったと思っています。
長い年月をかけて変わっていくこと、あっという間に変わっていくこと。
長いようで、短い人生。
人生に終わりなどないと思えることが、若さの特権だったのですよね。
時間という絶対であるはずのものが、実は相対的なものであり、長くも短くもなるということ。
二度と戻れないことだけが、時の平等さなのだと改めて気づかされるのです。
あと、どのくらいこの道を歩いて行けるのだろう。
これまでに、曾祖母、祖父母、父母を見送ってきました。
あとは、いつか自分が行くだけか。
その先に、何があるのか、ないのか。
確かめる時が、恐いような、楽しみなような。
数年前に友人がガンで亡くなった時、仲間の一人が、「次にガンになるのは誰だろうな?」とポツリと言いました。
それは結果的に僕でしたが、それ自体はさほど大した問題ではありません。
たまたま僕であった、というだけのことです。
それより、人が一人きりで生まれて、一人きりで死んでいくという当たり前のことに、僕は淋しさのようなものを感じます。
今日という日に、人生の始まりの人がいて、人生の幕をおろす人がいる。
僕のように、愛犬と過ごす、平凡で、けれど幸せな一日の人間もいる。
だけど、その幸せは永遠ではない。
それでも、みんな光に包まれていて欲しい。
愛を知ることができるならば。
僕たちが持っていけるもの、
それは、心にあるものだけなのだから。





