皆さま、こんばんは。
いつもフーラとサーラを応援いただき、ありがとうございます。
いただいた「いいね」 にお返事できておらず、すみません。
サーラとパパは、夜、パパのベッドで必ず一緒に寝ます。
そうでなかったのは、今年の1月11日から1月19日までの9日間、パパが手術のために入院していた時だけ。
パパの手がサーラの身体に触れていたり、サーラのおしりがパパの身体に触れていたり。
パパは、サーラの体温に、サーラの生命の息吹きを感じます。
サーラのぬくもりは、パパにおまえも生きているのだと教えてくれます。
今日の午前中、用賀にあるオッケーというスーパーへ、サーラのフードをまとめ買いに行ってきました。
帰りに、二子玉川の駅前を通りました。
駅前のスクランブル交差点に、赤信号でクルマを止めた時、僕は目の前を行き交う人々を眺めました。
映画の画面のように人々が流れていきます。
みな、それぞれの方向へバラバラに歩いていきます。
若い女性も、家族連れも、子どもも、お年寄りも、サラリーマンも。
僕は、行き交う人々に見とれ、引き込まれました。
当たり前かもしれませんが、ここはうちの近所にもかかわらず、知った顔は一人も見かけませんでした。
僕は彼らを誰ひとりとして知らず、彼らも僕を誰ひとり知らない。
おそらく死ぬまで、目の前を歩いている彼らとは、出会うことも話すこともない。
そんな当たり前のことに、僕は動揺しました。
そんな当たり前のことに、なぜか感傷的になりました。
僕の知っている人と知らない人の境界線は、いったい何なのだろう?
知っていること、つまり、出会いには、いったいどんな意味があるのだろう。
人生は有限であるがゆえに、人との出会いも有限に違いありません。
でも、それ自体にどんな意味があるのか、意味などないのか。
そんなことを感じていたような気がします。
目の前の信号が青に変わり、僕はスクランブル交差点を左折しました。
ずいぶん長い時間が流れたように感じました。
でも、本当はわずか1分か2分ほどの時間が過ぎただけなのでしょう。
僕の心は、真っ白いキャンバスへと戻っていきました。


