(サーラ)

 

 

皆さま、こんにちは。

 

いつもフーラとサーラを応援いただき、ありがとうございます。

 

いただいた「いいね」にお返しできておらず、すみません。

 

 

梅雨入りし、東京も雨が降ったりやんだりの一日です。

 

最近も、殺処分直前の犬たちを救おうとする方々のブログ上での呼びかけに頭が下がると共に、

 

助かって欲しいという気持ちと、自らの無力さを感じる1週間でもありました。

 

また、我が子フーラをはじめ、ブロ友の皆さまの寿命を迎え亡くなっていった犬たちのお話を聞くにつけ、

 

悲しみを共有させていただくと共に、その子たちのある種の「幸せさ」を感じていました。

 

我が子の死は悲しいけれど、人間に見守られ悲しまれて送られていった子たちは幸せだと思います。

 

もちろん、我が子の死に医療ミスの可能性がある場合など、納得のいかない飼い主さんもおられると思います。

 

ですから、すべてを一律に語ることはできないのですが。

 

犬は、太古から人間との関係性を育んできた動物だと言われています。

 

群れの一員として生き、人間と共に生きることに喜びを見出します。

 

そのような中、センターに収容され処分されていく子たちの写真などを見ていたたまれないのは、

 

その目が、絶望、不信、哀しみ、に満ちていることです。

 

実際には、僕たちがその命の危機を知ることができた子はごく一部であって、

 

ほとんども子たちは、僕たちが愛犬と笑い合っているそのさ中に、処分されているに違いないのです。

 

どう力んだところで、僕にはすべての犬を救う力はありません。

 

でも、知ってしまったことをすべて忘れて生きるには、あまりにも切なさが大きいのです。

 

犬はには、喜怒哀楽の豊かな感情があります。

 

どれだけ、恐かったか。

 

どれだけ、淋しかったか。

 

どれだけ、空腹だったか。

 

絶望に満ちていた保護犬が、一年後に新たな飼い主と共に笑っている写真などを見ると、本当に幸せな気持ちになります。

 

それは、お金では買えない種類の幸せです。

 

日本人は、そろそろお金では買えない幸せに真剣に向き合う時期に来ているのではないか?

 

それが成熟するということなのではないか?

 

あの犬たちは、僕たち日本人に突き付けられた刃かもしれません。

 

「お前たちは、命をどう考え、どう扱い、これからなにを目指すのか」

 

あの犬たちの目が、そう問いかけ、のど元につきつけられた刃に思えるのです。

 

僕は、僕ら日本人が犠牲にしてきたあの犬たちから、決して目をそらしてはいけないと思うのです。