(フーラ)


11年前、7歳の終わり頃のフーラをわが家に迎え、10年間を共に暮らし、昨年の春、桜の中で、その18歳の旅立ちを見送りました。

フーラとの暮らしは、僕に犬と暮らすとはどういうことなのか、犬の病と向き合うとはどういうことなのか、そして、看取りとはどういうことなのか、そんな多くのことを教えてくれました。

たくさんのかけがえのない喜びと、胸を刺す痛みがありました。

今にして思えば初めての経験ばかりで、フーラのためにもっとああしておけばよかった、こんなことをしてやれたはずだという、後悔に似た感情が湧き上がってきます。

フーラは保護される前の過去の暮らしの中で、人間の食べ物を食べていたふしがあり、人間の食事に対する執着がありました。

僕は、どうしてもそれを断ち切ってやる強さを持てず、パンの切れ端やら、アイスクリームやら、いろいろなものを、自分に言い訳をしながら、おやつとしてフーラに与えていました。

フーラが欲しがる姿と喜ぶ顔に負けていたように思います。

13歳くらいの時、フーラの朝の目覚めが極端に悪くなり、毎日、水のような無色無臭のおねしょをするようになったことから腎不全が発覚しました。

おそらく、長い間の食生活が原因に違いないとの確信を持っています。

フーラの写真は、たくさん撮りためてきましたが、動画をもっと撮っておけばよかった。 

一番輝いていたころのフーラの動画がないのです。

ブログを始めた2016年の秋、フーラが旅立つ1年半前くらいからのものが少しあるだけです。

動画も写真も、僕がフーラの死を悟った最後の1ヶ月のものが一番多くあります。

フーラを失いたくなくて、看病しながら必死に撮りましたが、そのころのものは、いまだに見ることができません。

命の散り際とは、儚く、切ないものです。

2016年からブログを始めましたが、フーラとのふれあいにかける日常の時間をもっと取っておけばよかったなぁとも感じています。

しかし、ブログにフーラの命の記録を残せたことは、とても誇らしく思えるのも事実です。

腎不全の治療に関しては、できる限りのことをしました。

お金もたくさん使いました。

選択した全てが正しかったのかはわかりませんが、フーラは精一杯がんばってくれましたし、自分の選択にも後悔はありません。

命にいつか終わりが来るのは仕方のないことです。

いま、サーラと暮らすようになって、より一層、一緒にいられる時間を大切にしたいと考えるようになりました。

結局、犬と暮らす幸せは、日々の生活の中にこそあるからです。

毎朝、フーラと暮らしていた時よりもだいぶ早起きして、仕事に出る前の時間を十分に取り、サーラとのふれあい大切にするようになりました。

これらは全て、フーラという愛する存在を亡くして得た教訓です。

二度と戻らない時間という宝物の価値を、改めて僕に教えてくれたのです。

僕たち人間は、犬だけのために生きられる訳ではありませんが、愛犬との時間は何ものにも代え難い幸せを、今も変わらず、僕に届けてくれます。

僕たちがワンコという宝物を愛するためには、時間という別の宝物を大切にする必要があるのです。


(サーラ)