思い返すと、子どもの頃に我が家で共に暮らした雑種犬を、最期まで面倒みなかった自分に対する後悔が、その根底にはあったような気がしている。
そして、いつのころからか、自分はやっぱり犬が好きなのだと気づいたからであった。
その雑種犬は、最期の時を父の会社の工場で迎えたのだと思う。
しかし、本当のことはわからない。
いつの間にか、我が家からなくなったからだ。
いや、正確には、いつの間にかいなくなったのではなく、無慈悲で勝手な「子ども」であった僕の目には、彼が映らかったのであろう。
父の工場で飼われていたのは、写真で見て知っていた。
子どもの僕は、最初、彼が大好きだったけれど、そのうち他に楽しいことがたくさんできて、彼の存在を忘れてしまったのだ。
そうして彼は、僕が知らない間に犬生を終えてしまったのだと思う。
彼の名前は、エスといった。
そんな彼を、いつのころだったか、僕は思い出し、彼に会いたいと願ったのだ。
たぶん、僕が大人になって、自分が弱い人間だと知ったころに、ふと彼を思い出したような気がする。
自分の心が、弱さに気づいて痛みだしたころ、無性に彼に会いたくなったような気がするのだ。
そのころになって初めて、彼がどんな風に生き、どんな気持ちで犬生の終盤を迎え、そして旅立っていったのかを、僕は考えるようになった。
エスは、寂しくはなかっただろうか?
それから、時を経て、やっと一緒に暮らせることになった愛犬が、フーラだった。
フーラは、7歳の後半に保護され、8歳を目前にして、僕の家族になった。
僕は、フーラを愛した。
フーラは、それに値するだけの存在だった。
僕がフーラを愛したのは、かつてのエスに対する罪ほろぼしではない。
フーラは、フーラであって、エスではないからだ。
彼らを愛し、その犬生に添い遂げるという行為は、その時点で僕にとっての使命でさえあったような気がしている。
犬は、誰でもが飼えるわけではない。
犬と暮らすということは、実は大変なことだ。
そして、何かを犠牲にしうるほどの喜びに溢れた、幸せなことだ。
真の意味で犬と暮らすには、手にせねばならないものが、たくさんある。
まず、犬と暮らせる家が必要だ。
そして、犬を養うお金が必要だ。
それから、犬を愛する心が必要だ。
なんといっても、最期まで共に生きる覚悟が必要だ。
そして、いま、
僕は、なによりも強く想う。
犬を飼うとは、
僕らが命をかけて
彼らを守ることだ。
命をかけて
彼らを棄てないことだ。
最期まで守り、
何があっも棄てないこと。
僕は、
そう確信しています。
フーラ
パパに
たくさんの幸せを
ありがとう



