こーたです。
先日書かせていただいた、NHK「家族になろうよ」を見ていた時、コメンテーターとして出演されていた糸井重里さんが、とても印象的な言葉を語っておられました。
たしか、以下のような内容だったと記憶しています。
「今年の3月21日に、愛犬を亡くしました。いま、ペットロス中です。今の気持ちは、悲しいというよりも寂しい、とにかく寂しいです」
ああ、ここにも同じ気持ちの方がいらっしゃっるんだなぁ。
そんなふうに思いました。
僕も、10年前にフーラと暮らし始めて少し経った頃から、オレはフーラを失ったら一体どうなるのだろう?と想像してきました。
しかし、いつもそこから先は、具体的な状況について考えるのをやめて、思考をシャットアウトしてきました。
現実になるのが、恐かったからです。
でも、それでよかったのだと、いま振り返ってみて、そう思います。
我が子が元気で、幸せに満ちあふれている時代には、考える必要のないことを考え過ぎることなどないからです。
犬も歳を取れば、病気にもなります。
考えねばならないこと、やってやらねばならないことが、たくさん出てきます。
そのような時を迎え、愛犬との暮らしは新たなステップへと、徐々に変化していくのだと思います。
フーラとの何年間にもわたる闘病の日々は大変でしたが、それらも含めて、僕はとても幸せでした。
しかし、いまフーラの死を経験し、こんなにも寂しい想いが、この世にあるのだろうか?というほどの寂しさを味わっています。
いずれ、その時が来てしまうのは、
避けようのないことであり、十分わかっていたはずのことでした。
それでも寂しい。
わかっていても寂しい。
ただ、寂しいのです。
毎晩、ベッドに横たわるたびに、「あ~~、フーラ~、会いたいよ~、寂しいよ~」と小さな声で叫んでは、ベッドの上でのたうち回っているのです。
以前のように、大声で泣いたりするすることはなくなりました。
あえて言えば、それが僕の成長の証なのでしょうか。
悲しみには慣れました。
もう大丈夫です。
なんといっても、フーラを18歳という高齢まで生かしてもらえたのだから。
天にも地にも神さまにも、感謝すべきことなのです。
たけど、寂しさだけはいけません。
どうしても、慣れることも、逃れることもできないのです。
今夜も、ベッドに小さな灯りをともして、「フ~ラ~、寂しいよ~」とつぶやきながら眠りに落ちていくおじさんの姿を想像されても、どうか笑わないで欲しいのです。
先ほど、夜道を歩いて帰ってきました。
今夜の東京は、曇り空の中に、大きくて丸い月が霞んで見えました。
フーラと一緒に見上げた空と、なにも変わらぬ月を見ながら、僕の瞳には夜道を共に歩くフーラの残像が、いつまでも消えることなく揺れていました。