みなさま、こんにちは。
こーたです。
フーラが死んで、今日で45日目を迎えました。
いま、毎日、僕の口をついて出る言葉は、「寂しいなぁ、フーラは何でいなくなっちゃったんだろうなぁ、、」です。
いまは悲しいというより、ただただ、毎日が寂しいです。
いわゆる四十九日が、間もなく訪れようとしています。
僕には、それに対するこだわりや思い入れはないのですが、
少しだけ僕自身に変化が現れつつあるとするならば、
あがらうことは出来ないフーラの死を、
終わりのない生命の流れのようなものとして、
少しずつ受け入れ始めたことなのかもしれません。
時間が、悲しみに慣れさせ、僕を癒やそうとしているのか、僕自身が、本能的に少しずつ忘れようとしているのか、
それは、よくわかりません。
しかし、フーラが、
「パパ、もういいんだよ」
と言ってくれているような気がしはじめているのです。
現実の僕はといえば、泣かずに、涙を浮かべるだけで済む日が、徐々に増えてきたように思われます。
まだ、胸をぎゅっとつかまれたような感情が、毎日幾度となく襲ってきます。
しかし、それでも以前より、心が震えてしまう時間が、少しずつ短くなってきたようには思われるのです。
フーラが死んだ翌日は、きのうの今ごろは、まだ生きていたのにと、涙しました。
フーラが死んで1週間目には、1週間前の今ごろは、まだ生きていたのにと、涙しました。
フーラが死んで1ヶ月目には、1ヶ月前の今ごろは、まだ生きていたのにと、涙しました。
しかし、少しずつ悲しみに慣らされて、平然としていられるようになっていくのであれば、
おそらく、それはよいことであり、フーラもきっと喜んでくれるのだと感じています。
僕は、いつかフーラの妹を迎えられたらいいなと思っていますが、
たぶん来年の3月30日、フーラの命日を過ぎた頃から、やっと真剣に考え出せるのかなぁというのが、今の正直な気持ちです。
それまでは、フーラとの想い出をたどっていかねば、
気持ちが整理できないように感じているのです。
いつかフーラの妹を迎えることができたならば、フーラの代わりとして迎えるのではなく、個性を持った新たな命として、見守っていきたいと思っています。
さて、話は変わりますが、昨日、僕は床屋に行きました。
そこのオーナーも、プードルを2匹飼っている人で、僕はフーラの死を彼に告げました。
実は、フーラが死んで5日目にも、その理髪店に行ったのですが、
その時オーナーは、別のお客さんのパーマをやっていて、ゆっくり話せませんでした。
その時は、彼と話さずに済んだことに安堵しました。
フーラが死んで5日目と言えば、フーラの名前を口にしただけで、僕は涙を流していたからです。
フーラの死を告げたところ、オーナーはいたくフーラの死を悼んでくれました。
そして、「こんなことを言ってはなんですが」と前置きした後に、
「早く次のプードルを飼ったほうがいいと思います」と、僕に言いました。
僕は笑って、「考えてみるよ」と答えました。
いつか時期が来れば、おのずと答えは見つかるだろう。
そんな気がしています。
(2017年6月19日のフーラ)
昨日はオーナーから、彼の娘さんを紹介されました。
「娘が、もう23歳になりまして、店を手伝い始めたので、よろしくお願いします」と。
「顔剃りを、娘にやらせていだだけますか?」と言うので、
喜んでやってもらいました。
赤ん坊の頃から、何度か見たことがありましたが、子どもが大きくなるのは、なんとも早いものです。
とても丁寧に剃ってくれたので、「お父さんより、筋がいい」と彼女に伝えたところ、
オーナーのほうが、「どうもすみません」と、嬉しそうに答えました。
帰りがけ、彼女に「君のお爺さんは、顔剃りが一番うまい人だったよ」と伝えました。
オーナーと娘は、ふたりそろって、「ありがとうございます」と言いました。
たしかに、彼女のお爺さんは僕の知る限り、顔剃りが一番うまい職人でした。
僕は、命の循環のようなものについて、帰り道で考えていました。
そして、僕とフーラのつながりについても。
命の循環の中で、フーラと僕は出会い、10年の歳月を共に暮らしました。
そして、フーラは一足先に、その肉体を脱ぎ捨て、魂のふるさとへと帰って行ったのです。
しかし、僕とフーラは、終わることのない、魂と生命の循環の中で、今も共にある。
確信はないけれど、きっとそうに違いない。
そう感じました。
僕は、フーラに向かって話しかけました。
「ねぇ、フーラ。聞いてくれるかい。今日は母の日だね。パパは、おまえのことで泣いてばかりいるけど、パパのお母さんの魂にもお礼を言わなきゃいけないね。そうだろ、フーラ」



