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(今から1年前、2017年5月、17歳のフーラ)

 

 

今日、フーラが死んで41日目を迎えました。

 

フーラが、2007年12月29日に、8歳になる11日前に我が家に来てから、

 

2018年3月30日に、18歳2か月と20日で、その生涯を閉じるまで、

 

シニアになってから出会ったにもかかわらず、10年以上の日々を共に過ごすことが出来ました。

 

それは、歳のいった保護犬を迎えた飼い主の中では、ごく稀なほどの「長い時間」を与えられた、

 

僥倖とさえいえる日々であったのだと理解しています。

 

フーラは、2007年当時「CATNAP」と名乗られ、

 

現在は「NPO法人アルマ」の名称で活動されている保護団体さんから譲り受けました。

 

 

(2007年アルマさんに保護された当時のフーラ)

 

子どものころには、外飼いの犬と暮らした時期がありましたが、

 

大人になってから、自分で犬を飼った経験がない中、

 

保護犬の譲渡を受け、実際にフーラを迎え、暮らすようになるまでには、

 

ほぼすべてが初めて経験することばかりで、いろいろな意味で大変でした。

 

それでも、フーラを迎えてからの日々は、すべてが新鮮で、驚きと幸せに満ちていました。

 

アレルギーがある、フードを選ばねばならない、分離不安があって一人になると足で顔を引っ掻いてしまう、

 

お留守番の時はエリザベスカラーをしたままでないと、顔の毛が抜け落ちるほど引っ掻き、

 

顎のあたりが血だらけになって腫れあがっている。

 

そんな負担に感じるようなことや様々な制約にさえも、経験がなく、わけがわからないながらも必死に向き合い、取り組んできました。

 

そして、そういった時間の中で、フーラとの絆をはぐくんできました。

 

なにより、そういった制約や困難さよりも、フーラが与えてくれる愛情、愛らしさ、活気といったものが、

 

日々の生活に潤いと輝きを与えてくれました。

 

毎朝、「朝だよ、散歩だよ」と起こされ、朝晩の散歩では季節の移ろいを感じ、街なかや河原を歩くたびに喜びを噛みしめました。

 

夜、家に帰れば、これほど僕という存在を待ち望んでくれる生き物が他にいるのか?と思うほどの

 

まっすぐさと勢いで、自らの喜びを体じゅうで表現してくれました。

 

そのたびに、僕は仕事の疲れも、その日にあったいやな出来事も、すべてを忘れ、

 

日々を生きる幸せさだけを享受することが出来ました。

 

 

(2018年1月28日 亡くなる60日前のフーラ)

 

 

13歳を過ぎ、腎不全になってからは、フーラの運動能力も活力も、どんどん失われていきましたが、

 

老犬となってからの生活にこそ、寄り添い合い、共に生きている実感をつよく持つことが出来たと思っています。

 

さらに、フーラがいればこそ、犬連れ同士の会話や、ご近所の方々との会話もたくさん生まれました。

 

フーラの病状が悪化し、ほとんどお散歩に行けなくなった今年の2月以降は、ご近所の方と会うことがほとんどなくなりました。

 

フーラが亡くなった時、お花を持ってきてくれたご近所の方に聞くまで、

 

会えばよくお話していた近所のご夫婦のおじさんのほうが、2か月近く前に亡くなっていたことさえ知りませんでした。

 

かように、フーラという犬の存在が、僕自身の社会性をも生み出していてくれた面が大いにあったのです。

 

この街の中で、フーラという犬と共に歩けばこそ生まれたつながりというものが、たくさんあったのです。

 

いま、この街を歩き、見知らぬ犬と散歩する女性を見ても、当然話すことはありません。

 

ところが、フーラと一緒なら、いろいろな方と自然と挨拶し、お友達になれました。

 

挨拶を交わす中で、ワンコと暮らす楽しさや苦労、フードや病気のことを話せば、

 

ある意味、遠くの親戚よりも、よっぽど仲良しになれたものです。

 

フーラを失った今、かつてのワンコ友達と道で会う機会も、めっきりと減ってしまいました。

 

なぜなら、ワンコがお散歩をする時間帯に、僕が外を歩かなくなったからです。

 

たまに、晩、僕が帰宅したときに、たまたまお散歩をしていたご近所のママさんに、家の前でお会いしたりします。

 

そんな時は、みなさんがフーラを偲んでくださいますが、なんとも寂しいものです。

 

みなさん、気落ちしている僕に気づかいしてくださるのですが、それが逆に僕には痛いのです。

 

そして僕も、「ええ、もう元気になりました。大丈夫です!」とか、つい強がって言ってしまうのですが、

 

相手の方にも、「痛い感じ」が伝わっているのがわかるのです。

 

どこにも居場所がないような気がして、何とも言えず、寂しいのです。

 

飼い犬を失うということは、言葉にできないほど、切ないものです。

 

フーラを失うことを通して、初めて僕は、本当の意味で人の痛みを知ることが出来たような気さえしています。

 

 

3/11 ⑤

 

 

2007年から2008年に、僕と同じように里親となり、

 

保護団体さんが主催してくれた卒業犬会で、2008年にお会いした里親の方々は、

 

みな、今もお元気だろうか?

 

あの方たちの愛犬は、今もまだ元気に生きているだろうか?

 

多くの子たちは、すでに虹の橋を渡ったかもしれないな。

 

 

 

 

このフーラの写真を、卒業犬会の時、一眼レフのカメラで撮ってくださった、

 

あの里親さんと可愛いワンコ。

 

そう。たしか、ミニチュアダックスの「ミーシャちゃん」は、どうしているだろうか?

 

ふと、10年の歳月を考えながら、同じ時を生きた里親さんと保護犬たちに

 

僕は想いを巡らせました。