みなさま、こんにちは。

こーたです。




今日、

自分のブログを

ほんの少しだけさかのぼって、

読み返してみました。

フーラの体調が

3月になって

急激に悪化する前、

僕らは、

どうしていたんだろう?

ふと、

そんなことを思ったからです。

最後の二十日間の介護が、

あまりにも苛酷で

凝縮された時間であったため、

そして、

フーラの生きようとする頑張りが、

あまりにも壮絶であったため、

それより前のことが、

はるか昔の出来事のように思われ、

よく思い出せないのです。

大切な記憶は、

全て残っているはずなのに

涙で霞んで

見えなくなってしまいました。

いま、

フーラの動画を開けるのが

苦しくて、

なかなか

見ることができません。




昨年の12月30日の記事、

「今を、ともに」

を読み返してみました。

2018年に

フーラと僕を

待ち受けているものが、

たとえ

どのようなものであったとしても、

フーラと共に、

その時の「今」を生きる。

そして、

フーラと共に

現実を受け入れて

歩んでゆくと書いてありました。

フーラは、僕に

「今」を生きることの大切さを

何度も

教えてくれました。

たけど、

こんなに早く別れが来るとは、

考えていませんでした。

最低でも、

今年の前半くらいは、

一緒にいられるはずだと

思っていました。

言葉でかっこつけて

書いたほどの

覚悟はしていなかった。

いま、

つくづく、さみしいです。




想い出を書きますとか、

だいぶ平気になってきたとか

前回、書きましたが、

まだまだですね、、、

子どもに先だたれる

親御さんの気持ちというのは、

こういうものかもしれないと、

子どものいない僕は、

よくわからないながらも

感じています。




ふとした瞬間に、

目の前に

記憶の中のフーラが、

現れてきます。 

僕自身、ふらふらになって

看病していたせいで

見えなくなっていたものが、

急に目に入ってきたりします。

フーラの未開封の

大量のフードは、

フーラのために花を手向けて

くださった、

お散歩友達のご夫婦に

差し上げました。




しかし、キッチンに

容器に入れたカリカリが

置いてあることに、

今日気づきました。

フーラが死んでしまってから、

ずっとそこにあったのに、

見えませんでした。

きのう、キッチンで、

スーパーで買った品物を

出しているとき、

フーラがいる気がして、

ハッと振り返りました。

でも、

フーラはいませんでした。

かつて元気なころは、

僕がガサガサとレジ袋から

品物を出していると、

爆睡していたはずのフーラが、

「パパ、おやつあるでしゅか?」

と、しっぽを振って

そこに立っていたものです。





「すごいな、フーちゃんは~」

いつも、

そんなことを話しました。

振り返った僕の

心の中に、

しっぽを振って

僕を見上げるフーラがいました。




フーラの痕跡が、

僕を切なくさせます。

いま、僕は、

2年前にブログを始めて

本当に良かったと、

心から思っています。

いまにして思うと、

ブログに書いた全てが、

フーラという犬が生きた証に

なったと感じています。

フーラと僕の

2年という月日をかけた、

お別れの準備だったのかも

しれません。




さらに言えば、

僕自身が、

僕自身の悲しみを癒すために、

フーラという存在すべてを、

その想い出のすべてを、

決して忘れることのないように

記録させた

大切な記憶の集積であったのだと

感じています。




きのうの記憶によって、

今を生きる力をもらい

明日の記憶を創っていけたなら。

僕は、

フーラにむくいたことに

なるのだろうか。

僕はこの先、

「フーラと、ともに」生きたと

胸を張って

フーラに言えるのだろうか?

今日、

フーラを偲びつつ、

そんなことを

そっと想いました。




フーラに、

会いたいなぁ。