今年の夏、
僕が初めて蝉の声を聴いたのは、
7月15日であった。
今年も蝉たちの
命の躍動にあふれる季節がやってきたのだ。
夏の陽ざしの眩しさの中で、
蝉たちの命が輝きを放つ。
まるで僕らに、
生きるとは何かを
教えようとするかのように。
東京でも、僕が住む辺りは、
蝉たちが長い時間を過ごす自然が、
たとえそれが人工的なものであれ
残されているが、
コンクリートに覆い尽くされた都心で
彼らの声を耳にすると、
その命のたくましさに、
いまさらながら感動すら覚える。
僕らが蝉の声を求め
懐かしむのは、
僕らがこの国に生まれ育ったことの
証かもしれない。
命の眩しさと儚さよ。
桜の花を見るように、
僕らは蝉たちの声に包まれると、
陽炎にゆれる情景とともに、
今、この時を生きる自らを再確認するのだ。
玄関の横で、
蝉がお腹を上にして横たわっている。
僕はそれを見て、
ただ、「頑張れ」と思う。
前に一度、
死んでいるのかと思い、
動かない蝉に触ったところ、
「ジジジッ」と鳴き声を発して、
狂ったような軌道で飛び去っていった。
思わず、心臓がドキリとした。
命の最期を迎えるまで、
彼らは戦っていたのだ。
それ以来、
僕はお腹を出した蝉を見かけると、
何もせず、
そっと見守ることにした。
大抵の場合、
次にその場所を見ると、その姿はない。
きっと、
命を燃やしながら飛び去っていったのだと
僕は信じることにした。
何も知らない子どものころは、
捕まえて虫かごにいれたり、
亡きがらをおもちゃにして遊んでいたものだが、
今は、
そのようなことはできない。
おそらく、
蝉と自分が大した違いのない、
小さく弱い生き物であることを
人並に
知ってしまったからであろうか。
一寸の虫にも五分の魂とは、
よく言ったものだ。
だからこそ
僕は、
いま傍らにいる、
この小さな命、
17歳7か月になる
フーラを守り続けたいと願う。
その、儚いきらめきよ。
時を切り取って
焼き付けるすべてよ。
君がいるだけで
僕は幸せなんだ。






