こんにちは。
フーラとこーたです。
おかげさまで、フーラはとても元気です。
あと10日ほどで16歳8か月を迎えます。

今日は、豪徳寺の動物診療所に行って血液検査を受け、
3か月分の腎不全のお薬をいただいてきます。
こうして、命を少しでも長くつないでいけるのですから、フーラは幸せな子だと思います。
さて、今日は僕が幼いころの話をさせてください。
いつのころからでしょうか。
ずいぶん前に大人と言われる歳になり、そして歳を重ねるにつれて、幼い日に出会った、
ある人と犬を懐かしむことが多くなりました。
そこにはいつも、わずかな悔悟が共にあるのですが。

僕が幼いころ、実家の向かいの家に住んでいた「滝野のおばちゃん」。
東京の南のはずれ、今よりもっと緑が多く、川は今より汚かったけど、
武蔵野の面影が色濃く残る緑の崖線のある町。
そんな街で暮らしていた僕の家族は、父と母と姉の4人家族。
僕が幼稚園に入る前から、お向かいの滝野さんのおじさんとおばさんは、
僕から見るとお爺さんとお婆さんに見える人でした。
おじさんとおばさんには子どもがいなくて、いつも静かに家のお庭の手入れをしていました。
そんな二人は、いつも泥だらけで遊んでいる僕を、なぜかとてもかわいがってくれました。
当時は 知る由もなかったことですが、おじさんは薬剤師で、
そのころすでにリタイヤしていたそうです。
とても寡黙なおじさんで、いつも目は笑っているのですが、僕が何を聞いても、
「うん」とか、「ああ」とか、「そうだ」とか、なにか一言しか言葉を発しませんでした。
たまにお家に入れていただくと、おそらく今思えばドイツ語と思われる本などがあり、
自分の家との様子の違いを子どもながらに感じたものです。
対するおばちゃんの方は、とっても穏やかで気さくで、小柄なのですがおしゃべりで、
いつも和服を着ている人でした。
ちゃきちゃきの江戸弁で話し、子どもながらに話し方がこの辺の人と何か違うな
と思っていました。
いつもは気取ってうるさかった、今は 亡き僕の母も、おばちゃんの前では遠慮がちでした。
僕には親から怒られると家から脱走する癖があって、
いつも滝野のおばちゃんのお家の垣根をくぐって庭に入ってかくれていました。
そのたびに母がおばちゃんの家の門で「すみません」と謝るのですが、
いつもきまって「その辺にいるんなら、私があとで連れて行ってやるから大丈夫。
あんたがそこにいたんじゃ、出てくるものも出てこれやしないだろ。」と言って、
母を追い返してくれました。
そして、僕が出ていくと、「こーちゃんのお母さん、私が追い返してやったよ。
お菓子を食べるかい。」と言ってニコッと笑うのです。
母に後から聞いたところによると、おばちゃんは日本橋の方の生まれで、
戦争中の東京大空 襲の時まだ小さかったそうですが、
死体のたくさん浮いた隅田川に飛び込んで助かったそうです。
そういえば、僕の誕生日は、ずいぶんあとの、東京大空襲があった日です。
おじさんとおばさんが、その後、どこでどのように出会い、
どのように生きてきたのか、僕は何も知りません。
ある時、一度だけ、「おばちゃんは、生まれたところに帰りたくないの。」と
聞いたことがあります。
そうしたら、「いま、ここが、一番いいよ。」と言いました。

ある犬とは、当時我が家の飼い犬だった「エス」。
当然のごとく外飼いで、しつけも特にせず、鎖につながれて小さな犬小屋で暮らしていました。
白い体毛の雑種の犬でした。
この犬と僕は、兄弟のように遊びました。
泥だらけになり、家の前の道や公園や野原を走り回りました。
滝野のおばちゃんのお家にエスが入ってお庭を 荒らしたこともありました。
そんな時、品のある人間が、小汚いガキと野蛮な動物に対し、
どれほど寛大かを教えられたと今も思っています。
僕とエスは、よく一緒に親から怒られたものです。
エスには、僕が親に怒られたときと同じように、時々脱走する癖があり、
長いと1週間くらい家に帰ってきませんでした。
今なら、お前も盛りがついたのか?と言って、ニヤッと笑ってやりたいところですが、
その当時はとても心配でした。
それでも、そのうち無事にふらっと帰ってきましたから、ある意味では、
まだ穏やかな時代だったのでしょう。

そんな僕でしたが、その後、子供の成長とは早く、子供とは無責任で、移り気で、
無慈悲で、勝手な生き物であると今にして思えば感じるような変化を起こしていきました。
学校に行き、何か面白いことを見つけはじめた僕は、
だんだんエスへの興味を失っていったのです。
以前のように泥だらけで走り回らなくなり、散歩も親まかせになり、
ついにエスは犬小屋につながれているだけになったのです。
そんな日々を見かねて、父がエスを、父の工場の番犬として連れて行くことになりました。
でも、当時の僕は何も感じていなかったらしく、それを止めようともしなかったし、
もっと言えばエスと別れた日の記憶がないのです。
おそらく、僕が学校へ行っている間にでも連れて行ったのでしょう。
それを悔いることもなく、僕はエスを忘れたまま成長していきました。
滝野のおばちゃんの家では、時を経て、おじさんが亡くなりました。
そうして、それから少しすると、おばちゃんが家を処分して施設に行くことになりました。
おばちゃんは、もともと体がそんなに強くなかったのと、
戦争で身寄りが少なくなっていたので、そんな選択をしたそうです。
母からその話を聞いて、「さみしいな」と思ったけれど、そのころ、
毎日をどう面白く過ごすかばかりを考えていた僕は、それ以上には深く考えませんでした。
そして、それから時がたち、その時の流れのどこかで、父や母から、
エスが天国に行ったこと、滝野のおばちゃんが亡くなったことを知らされました。
その時もやっぱり、「ああ、そうなんだ。悲しいね。」程度の言葉しか、
僕は発していなかった気がします。
子どもか大人かわからない中途半端な生き物の言葉。
でも、心の中になにか乾いた種のようなものがばら蒔かれ、
少しずつ水分を吸い込みながら心に沈殿していくような気持ちを味わっていた気がします。

その時以来、歳を重ねるごとに、おばちゃんとエスに会いたい気持ちが
この季節になると僕の心に募ってくるのです。
なぜ、あの時おばちゃんに会いに行かなかったんだろう。
なぜ、もっとエスを抱きしめなかったのだろう。
僕が今まで出会った人間の中で、あんなに粋なおばさんは他にいなかった。
今まで僕が出会った犬のなかで、数十年たっても鮮明に輝いているのはエスだけだ。
僕は、心の中のエスに会うためにフーラと出会い、
フーラの命を守ることで毎日エスとも話しているような気がします。
昨日、駅に向かう途中、近道にしている公園の石畳で、
いつものように「ありんこ」をよけました。
子どものころは、「えい、えい」とか言いながら、平気で踏みつぶしていたありんこです。
子どものころは、純粋で、そして、残酷でいられたものだ。
いつのころからか、僕はありんこを決して踏まなくなりました。
一生懸命よけて歩きます。
そして、彼らをまたぎながら、「おい。誰かに踏まれるんじゃねーぞ。」と
心の中でささやくのです。
いつか、おばちゃんにもう一度会うことができたら、僕は、伝えよう。
「あと、もう少ししたら、いま、ここが、一番いい、と言える人間になれるかもしれません。」


フーラとこーたです。
おかげさまで、フーラはとても元気です。
あと10日ほどで16歳8か月を迎えます。

今日は、豪徳寺の動物診療所に行って血液検査を受け、
3か月分の腎不全のお薬をいただいてきます。
こうして、命を少しでも長くつないでいけるのですから、フーラは幸せな子だと思います。
さて、今日は僕が幼いころの話をさせてください。
いつのころからでしょうか。
ずいぶん前に大人と言われる歳になり、そして歳を重ねるにつれて、幼い日に出会った、
ある人と犬を懐かしむことが多くなりました。
そこにはいつも、わずかな悔悟が共にあるのですが。

僕が幼いころ、実家の向かいの家に住んでいた「滝野のおばちゃん」。
東京の南のはずれ、今よりもっと緑が多く、川は今より汚かったけど、
武蔵野の面影が色濃く残る緑の崖線のある町。
そんな街で暮らしていた僕の家族は、父と母と姉の4人家族。
僕が幼稚園に入る前から、お向かいの滝野さんのおじさんとおばさんは、
僕から見るとお爺さんとお婆さんに見える人でした。
おじさんとおばさんには子どもがいなくて、いつも静かに家のお庭の手入れをしていました。
そんな二人は、いつも泥だらけで遊んでいる僕を、なぜかとてもかわいがってくれました。
当時は 知る由もなかったことですが、おじさんは薬剤師で、
そのころすでにリタイヤしていたそうです。
とても寡黙なおじさんで、いつも目は笑っているのですが、僕が何を聞いても、
「うん」とか、「ああ」とか、「そうだ」とか、なにか一言しか言葉を発しませんでした。
たまにお家に入れていただくと、おそらく今思えばドイツ語と思われる本などがあり、
自分の家との様子の違いを子どもながらに感じたものです。
対するおばちゃんの方は、とっても穏やかで気さくで、小柄なのですがおしゃべりで、
いつも和服を着ている人でした。
ちゃきちゃきの江戸弁で話し、子どもながらに話し方がこの辺の人と何か違うな
と思っていました。
いつもは気取ってうるさかった、今は 亡き僕の母も、おばちゃんの前では遠慮がちでした。
僕には親から怒られると家から脱走する癖があって、
いつも滝野のおばちゃんのお家の垣根をくぐって庭に入ってかくれていました。
そのたびに母がおばちゃんの家の門で「すみません」と謝るのですが、
いつもきまって「その辺にいるんなら、私があとで連れて行ってやるから大丈夫。
あんたがそこにいたんじゃ、出てくるものも出てこれやしないだろ。」と言って、
母を追い返してくれました。
そして、僕が出ていくと、「こーちゃんのお母さん、私が追い返してやったよ。
お菓子を食べるかい。」と言ってニコッと笑うのです。
母に後から聞いたところによると、おばちゃんは日本橋の方の生まれで、
戦争中の東京大空 襲の時まだ小さかったそうですが、
死体のたくさん浮いた隅田川に飛び込んで助かったそうです。
そういえば、僕の誕生日は、ずいぶんあとの、東京大空襲があった日です。
おじさんとおばさんが、その後、どこでどのように出会い、
どのように生きてきたのか、僕は何も知りません。
ある時、一度だけ、「おばちゃんは、生まれたところに帰りたくないの。」と
聞いたことがあります。
そうしたら、「いま、ここが、一番いいよ。」と言いました。

ある犬とは、当時我が家の飼い犬だった「エス」。
当然のごとく外飼いで、しつけも特にせず、鎖につながれて小さな犬小屋で暮らしていました。
白い体毛の雑種の犬でした。
この犬と僕は、兄弟のように遊びました。
泥だらけになり、家の前の道や公園や野原を走り回りました。
滝野のおばちゃんのお家にエスが入ってお庭を 荒らしたこともありました。
そんな時、品のある人間が、小汚いガキと野蛮な動物に対し、
どれほど寛大かを教えられたと今も思っています。
僕とエスは、よく一緒に親から怒られたものです。
エスには、僕が親に怒られたときと同じように、時々脱走する癖があり、
長いと1週間くらい家に帰ってきませんでした。
今なら、お前も盛りがついたのか?と言って、ニヤッと笑ってやりたいところですが、
その当時はとても心配でした。
それでも、そのうち無事にふらっと帰ってきましたから、ある意味では、
まだ穏やかな時代だったのでしょう。

そんな僕でしたが、その後、子供の成長とは早く、子供とは無責任で、移り気で、
無慈悲で、勝手な生き物であると今にして思えば感じるような変化を起こしていきました。
学校に行き、何か面白いことを見つけはじめた僕は、
だんだんエスへの興味を失っていったのです。
以前のように泥だらけで走り回らなくなり、散歩も親まかせになり、
ついにエスは犬小屋につながれているだけになったのです。
そんな日々を見かねて、父がエスを、父の工場の番犬として連れて行くことになりました。
でも、当時の僕は何も感じていなかったらしく、それを止めようともしなかったし、
もっと言えばエスと別れた日の記憶がないのです。
おそらく、僕が学校へ行っている間にでも連れて行ったのでしょう。
それを悔いることもなく、僕はエスを忘れたまま成長していきました。
滝野のおばちゃんの家では、時を経て、おじさんが亡くなりました。
そうして、それから少しすると、おばちゃんが家を処分して施設に行くことになりました。
おばちゃんは、もともと体がそんなに強くなかったのと、
戦争で身寄りが少なくなっていたので、そんな選択をしたそうです。
母からその話を聞いて、「さみしいな」と思ったけれど、そのころ、
毎日をどう面白く過ごすかばかりを考えていた僕は、それ以上には深く考えませんでした。
そして、それから時がたち、その時の流れのどこかで、父や母から、
エスが天国に行ったこと、滝野のおばちゃんが亡くなったことを知らされました。
その時もやっぱり、「ああ、そうなんだ。悲しいね。」程度の言葉しか、
僕は発していなかった気がします。
子どもか大人かわからない中途半端な生き物の言葉。
でも、心の中になにか乾いた種のようなものがばら蒔かれ、
少しずつ水分を吸い込みながら心に沈殿していくような気持ちを味わっていた気がします。

その時以来、歳を重ねるごとに、おばちゃんとエスに会いたい気持ちが
この季節になると僕の心に募ってくるのです。
なぜ、あの時おばちゃんに会いに行かなかったんだろう。
なぜ、もっとエスを抱きしめなかったのだろう。
僕が今まで出会った人間の中で、あんなに粋なおばさんは他にいなかった。
今まで僕が出会った犬のなかで、数十年たっても鮮明に輝いているのはエスだけだ。
僕は、心の中のエスに会うためにフーラと出会い、
フーラの命を守ることで毎日エスとも話しているような気がします。
昨日、駅に向かう途中、近道にしている公園の石畳で、
いつものように「ありんこ」をよけました。
子どものころは、「えい、えい」とか言いながら、平気で踏みつぶしていたありんこです。
子どものころは、純粋で、そして、残酷でいられたものだ。
いつのころからか、僕はありんこを決して踏まなくなりました。
一生懸命よけて歩きます。
そして、彼らをまたぎながら、「おい。誰かに踏まれるんじゃねーぞ。」と
心の中でささやくのです。
いつか、おばちゃんにもう一度会うことができたら、僕は、伝えよう。
「あと、もう少ししたら、いま、ここが、一番いい、と言える人間になれるかもしれません。」

