”シゲル~” 鳥取から上京した女性が、国会前で叫んでいた。
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戦争法案の成立
2024年 シゲルのお腹は、やはり黒かった…踊り子だった
隠せないお腹👆
隠せない無法な考え
”タロ~”
隠せない劣化・日本の科学力 教育力
ネイチャー論文 中国7つ
10位までに日本ゼロ 軍事費は教育費の倍
智を開くことも、産をつくることもできなくなりそう
”国民の知識が非常に低いし、 国民が低調すぎる。
結局まだ洗練されてをらぬといふか、実に困ったもんだ。
これまで一体何を教育してゐたか。
これも明治以来の教育の方針が悪かったんだな”
1938年8月30日 西園寺公望
明治以来の教育の方針?
富国強兵の呪いが、解けないように教育してきた…
自由民権運動の弾圧、小林多喜二の殺害 抑圧してきた…
改憲して、再び軍事教育へ?
教育勅語はやめて、自由に学ぶ教育だったはず…
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(二)教育の体勢 教育の戦時体制から平時体制への復帰、学校における軍事教育の全廃および戦争直結の研究所等を平和的なものに改変する。
貧しくなり、教育現場は疲弊し…
福岡3区 奥田ふみよ
1945年軍事教育を受けた学生が、ウラン鉱石を掘った石川町
まだ今も自ら畑に出て野菜などを作っている平田村に住む吉田秀忠さん
今年で94歳になりました
戦時中は母と弟妹との4人暮らし。長男として食料を確保するため農作業の日々でしたが、蒸気機関車が大好きで運転士になることを夢見ていました。
”鉄道、機関車、蒸気機関車あの運転手すごくあこがれたんですわ”
終戦4ヶ月前の1945年4月、当時中学3年生だった秀忠さんたちおよそ50人は戦争による労働力不足を補うため軍事関連の作業に動員されました。
その場所は隣町石川町にある石川山
2人1組でもっこに棒をさし、大きな石を何度も何度も運び出したと言います。
軍人などが監視する中もたついていると激しく棒でぶたれることもありました
”こったさ てこ棒でしたたかどつかれちゃって”
ある日軍人の幹部らし人物が秀たさんたちを前に手にある鉱石を掲げこう檄を飛ばしたと言います
”マッチ箱一つ これ印象に残っている”
”これ高いとこから落とすと、うんでかい都市だってやっつけることできんだから”
その鉱石というのが、原爆の原料になるウランを微量に含んだ岩石
でした。
実は日本軍も1943年から理科学研究所に依頼し、核のエネルギーを利用した特殊爆弾の開発を進めていました。
国内への空襲が激化する中戦争により秀たさんも教師を目指していた従兄を失いました
”そういうのできるのは大したもんだ
いや~すごくあの期待たしていたんですわあ”
しかし開発に成功したのはアメリカ
広島長崎に落とされその年だけで20万人以上の命が奪われました。
一方、日本の原爆開発はウランの分離や濃縮など核開発の上では
基礎的な段階で立ち止まっていました
秀忠さんたちは終戦となった8月15日まで、作業をさせられたといい
ます
”ま、結果言えば虚しい作業
あの奉仕させられたっていうことだけですわ
虚しい気持ちですわ はい”
終戦後貧しさを極めた日本。
秀忠さんは家族を支えるために中学を中退し、運転手の夢も断念
そのことを今でも後悔しています。
”学校をやめなければ…思いますわ はいはい思ってます
少しは今とは違った生き方なったもしれない そう考えます。はい”
戦争は2度としてはいけない。
秀忠さんのずっと変わらない思いです
民と御上で異なる戦争への思い
1950年6月26日 昭和天皇の言葉 by拝謁記を読む
米軍に日本を防衛してもらうべきという考えを明らかに…
”日本人としては願はしいことではないが、九州に若干の兵をおくとか
呉に海軍根拠地を設けるとか、兎に角日本の治安の問題に注意して貰わはねば困るし、朝鮮の問題に鑑みて総て早く処置をとって貰いたいと思ふ”
1949年三井鉱山田川鉱業所を訪問した昭和天皇
石川町のウラン発掘現場や、長生炭鉱には行幸していない。
82年ぶりに開いた長生炭鉱の坑口 1942年183名が水没事故で死亡
遺骨調査に向け掘削工事進む
何代も続く悪政。止めるのは民。選挙。
戦争の予感、原発事故の不信、不安を叫ぶ!
シゲル~ あばかすな~(ウソをつくな~)
青字はブログ担当者の記事