痛恨の選択 都知事・原発 | 福島から山口・空・海・大地

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わすれない。ひとりでも可視化を

痛恨の選択をした都民のみなさまへ

 

 候補者の本当の姿👉

 

 

 

1年後のリコールまでたっぷり味わう復讐     怯えるしかない 

        切られゆく公園の樹々と、非正規職員?👆

 

 

 

痛恨の選択をした結果は、切られた樹々と太陽光

 

 

 

 

痛恨の選択をした結果は、原爆投下と原発事故

 

 

日本 原爆づくりを選択。5年後に原爆投下

1941 日本、陸軍航空本部が理研に原爆研究を依頼
      太平洋戦争始まる
1942     大サイクロトロンの設計図製作
     日本、海軍が核物理応用研究会を設立
1943     1月、「ニ号研究」を開始
      大サイクロトロン完成
1944     3月、理研49号館に熱拡散塔が完成、ウラン濃縮実験を開始
1945     4月、理研49号館・荒川工場が焼失、「ニ号研究」中断

 

 

アメリカ

1942年8月13日 マンハッタン計画開始

1945年5月10日 原爆目標検討委員会

 

戦争の勝利、終戦のために科学を利用(悪用)

●「放射線医学的影響」 の問題が取り上げられ、オッペンハイマーの提出したメモを中心に論議された。

メモには爆弾自体の放射性物質に毒性があり、人間一人の致死量の約10万倍の毒性物質が含まれていること

●爆発時の放射線に曝された場合、半径1.6キロ以内で人間に損傷を与え、半径1キロ以内では死をもたらすなど、詳細に述べられている。

●爆発時に大気、大地、水などが汚染され、放射線による二次的被害をもたらすことには触れていないが、それでも通常の空爆とは質的に異なる対人間降下効果が予見されていた。

●しかし。記録から見る限りこの事実が深く論じられたり、放射線被害が掘り下げられて検討された形跡はうかがえない。

                      by荒井信一著”空爆の歴史”

 

 

原爆の被害調査は、不明なまま

 

 

11月、アメリカ軍がサイクロトロン切断し東京湾へ投下

 

 

 

原爆投下され敗戦しても、原爆を選択?

 

❷1954年3月ビキニ第五福竜丸事件後も、原発と核研究を選択

1ケ月後、原子力予算2億3千5百万円

1年後、田無に原子核研究所を建設
 
朝永振一郎などの科学者が町議会、町長などと話し合い
”原子核の研究と原子力の開発はちがう。
前者の主役はシンクロサイクロトンという加速装置であり、
後者の主役は原子炉で、全く別物である。
 
放射線が出ることは認めなければならないが、原子炉から出るものに比べればほとんどゼロに等しい。
 
化学の実験室から出る有毒ガスと化学工場の煙突から出るそれとの差のようなものだ”
 
 
田無の住人
”田無には大陸から引き揚げてきて食うや食わずの人がいる。
聞けば10億円もかかる研究所を作るというのは、どう考えても、われわれとしてが納得できない。
それだけの金があれば、飢えている人たちを助けるようなことをやるべきではなかろうか”
                 by朝永振一郎著”プロメテウスの火”
 
 
 
➌放射能汚染事故を起こした後、移転を選択
 1980年5月、核研で放射能汚染事故が発生した。
所外の研究者グループの実験操作ミスによって、放射性同位元素で超ウラン元素のカリフォルニウムの汚染に気づかないまま汚染した紙類をごみ焼却場で燃やしてしまった。
関係者の被爆や研究所外への影響はなかったが、新聞一面には「住宅地の中のズサン実験」「問われる管理体制」といった見出しがおどった。

 2001年に研究施設は茨城県つくば市に移転し、跡地は保谷市と田無市の合併による西東京市誕生を記念して「西東京いこいの森公園」として再生した。
 
2024年の日本 原発ゼロより核のゴミづくりを選択
全国の原発は公園ではなく、使用済み燃料キャスク保管地になる?
 
 
 
❹原発事故後、芸能人より政治活動を選択した山本太郎氏
被害者支援せず、基準値変更・風評加害バッシングを選択した国へもの申す
 
 
痛恨の選択をしたと思っていないから、太郎氏は継続中
痛恨の選択をしたと思った都民のみなさまは、マッピングの光りの下
辛い4年を継続する?
 
青字はブログ担当者の記事