久しぶりの九州だ。やはり近場は落ち着く。当面ここでのんびりやりたい。
 これまでの町並み保存地区を巡る旅も終盤になり、すこし矛先を変えようと、先頃始めた農村風景を訪ねる旅に並行して、この島旅をテーマに掲げた。


 退職後に始めた古代の遺跡巡りに続いて、この間、全国の町並み保存地区を渉猟したので、列島を凡そ二巡したことになる。   尤も、遺跡巡りの方は、交通の不便を我慢しながら、メジャーではない鄙の地を往くことになった一方、町並み保存地区は

地域が観光振興に取り組んでいるところでもあり、交通や宿泊施設も充実して、観光ではメジャーな所だった。期せずして列島の光と影を垣間見ることになったと言うことだ。


 町並み保存地区は未完のままではあるが、遠路にも疲れたので、そろそろ年貢の納め時かと。機会があれば残りの地区を追完することもありやなしや、だが、今はしばし休息をとりたい。


 とりあえずは、近場の宗像市地先にある「大島」をテーマの初発に据えた。安直に観光と海の幸を堪能しようとの算段だ。

 島の大きさは周囲約15㎞、700人程の島民が暮らす。
 

 大島と言えば、宗像大社中津宮の在所だ。宗像三女神のうち湍津姫神(たぎつひめ)を祀る。沖津宮に田心姫神を、辺津宮の大社には市杵島姫神を祀る。湍津は玄海灘の荒波を表しているのだろう。

  神話では三女神は天照大神と素戔嗚尊の誓約(うけい)により、天照大神が素戔嗚の剣を噛み砕いた破片から生まれ、皇孫ニニギノミコトを見守るためこの筑紫宗像の島々に降り立ったとされる。


 2017年、中津宮と沖津宮遙拝所が世界遺産「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群に登録された。
 毎年10月には、年に一度、三女神が再会するため、沖津宮と中津宮の二神を満艦飾の漁船に遷し、辺津宮への海上渡御(みあれ祭)が絵巻のように繰り広げられる。

 また、中津宮は日本の七夕伝説発祥の地ともいわれ、毎年旧暦7月7日に七夕祭が行われる。
 中国や朝鮮との交易によりもたらされたものであろう。


 島内には世界遺産「宗像大社中津宮」や「沖津宮遙拝所」などのスポットに混じって不思議な空間、「安倍宗任の墓」がある。
 平安時代も後期、東北地方には出羽国に清原氏、陸奥国に安倍氏の二大勢力があった。
 陸奥国の安倍氏は陸奥国府と対立し、「前九年の役」(1062)で滅亡、続く「後三年の役」(1083)で、清原氏が消滅、その後を奥州藤原氏が登場するが、宗任は、前九年の役で破れた安倍氏の長だ。

 

 安倍鳥海三郎宗任とも呼ばれる。降伏することにより生き延びた宗任は伊予国に次いで、この筑前大島に再配流され、77歳でなくなったという。寒冷の東北を去って、この温暖な地で安らかな最後を迎えただろうか?

 教養人だったようだし墓所もきれいに整えられて、地元の信仰に守られているようだ。


 下船して、すぐにレンタサイクルに飛び乗り、流れる汗を拭うのももどかしく漕いだ。

 が、今日は生憎の薄曇り、お天道様も近頃元気がない。昼には薄陽も差すかと思いきや、結局一日曇天を強いられた。

 それが結果的には冷気のエネルギーとなり、体のクールダウンになった。そして急いだ。

 

 その心は、昼食のビールに気もそぞろ、海鮮丼をつまみに舌鼓を打つのだ。

 飛び込んだ漁師店は、アワビや各種刺身のほか、サザエの壺焼きのサービスまであった。

 所在なく座っている古老の主をしばし酒の相手にしたが、しみじみと島の純朴さが伝わってきた。

 スケッチは島の北辺、馬蹄岩に伸びる半島だ。背後には神崎大島灯台が白亜の裸体で立っている。