中央図書館と小倉郷土会の共催になる、月例の講演だ。
 小倉郷土会の歴史は長く、およそ1世紀に亘る地元好事家による郷土史研究会だ。その研究会に近頃、中央図書館が相乗りしたのだ。
 

 それにしても小さなホールは老若男女で常に満席だ。市民の関心の程が窺える。
 講師は北九州歴博の佐藤学芸員だ。音響もよく、快調な滑り出しだ。


 中世から戦国期、この地方は山口や大分の雄藩に囲まれ、それにはじき飛ばされまいと、国人達は生き残りをかけて、必死の攻防を展開する。
 中小企業が大企業に臨むように、これに取り込まれ、あるいは徒党を組み、雄藩の対立をも利用しながら、生き残る術を会得するのだ。

 それに勝るとも劣らぬ庶民の逞しさは、時に国人領主と共闘し、時に反抗しながら、その存在を誇示してきた。

 群雄割拠の戦国時代は武士も庶民もしたたかに生き、闘ったのだ。
 

 室町時代の守護大名大内氏は、義隆の時代には周防をはじめ、長門・石見・安芸・備後・豊前・筑前を領するなど、西国一の戦国大名になる。日明貿易を独占し、学問・芸術など文化的にも全盛期を迎えるが、以前からの内紛、武断派と文治派の対立が激しくなり、武断派の陶隆房の謀反に遭って、義隆は自害(大寧寺の変)。
 義隆の死後、陶隆房は義隆の甥で大友氏出身の大友晴英(のちの大内義長)を擁立するが、毛利元就の奇襲に、陶は自害(厳島の戦い)、そして弘治3年、義長も自害して、大内氏は滅ぶ。大友氏は通婚により大内氏と縁戚関係にあった。


 大内氏の所領を継承した毛利氏は、大友氏の居城、門司城を攻略、これに貫庄から豊前国人の貫元助が奮闘するが、討死。
 毛利氏は門司城のほか、松山城(苅田町)や香春岳城を押さえる。
 また、貿易港・博多を取り戻すべく、反大友の筑前の国人、秋月氏や筑紫氏を煽るが、大友氏により鎮圧、肥前でも龍造寺氏が少弐氏を滅ぼし戦国大名として名乗りを上げる。


 秋月氏は種方の代に毛利に接近、大友に滅ぼされるが、子の種実は毛利に亡命する。
 毛利氏は一旦、大友氏と和睦するが、石見の尼子氏を破ると、再び筑前の攻略に引き返えす。

 大友は欺されやすいのか寛大なのか?
 

 筑前では再び秋月氏を始め筑紫氏、原田氏、宗像氏、龍造寺氏が連携、さらに高橋氏、立花氏までが大友に反旗を翻し、筑前は混乱に陥るが、大友氏は大内氏残党を周防に上陸させ、尼子氏の残党を支援し攪乱、毛利氏を筑前より撤退させる。
 筑前の反乱勢力は大友氏に降伏、大友氏は立花氏、高橋氏を許し、頭主には大友氏の重臣を据える。九州は大友、島津、龍造寺の三氏鼎立となる。


 ところが、1578年の「耳川の戦い」で大友氏が島津氏に大敗すると、筑前では秋月氏、筑紫氏等が三度、大友に反抗、筑後には龍造寺氏が攻め込むが、侵攻してきた島津氏に破れる。

 大友氏の支配力が低下した北部九州は島津氏に接近、国人同士の連携を強める。その中心に秋月種実がいた。

 高橋元種は小倉城と香春岳城を、長野助守は馬ヶ岳城を押さえる。三者は血縁関係にあった。


 いよいよ九州は島津軍の勢力となり、大友宗麟は豊臣秀吉に援軍を要請する。
 1587年、秀吉の九州征伐に島津氏は降伏し、九州は秀吉によって平定されるのだ。
 九州平定に際し、長野氏は毛利氏に帰順、その後、筑後から肥後加藤家の与力となり、高橋氏は黒田官兵衛に降伏、小倉城を開城して日向藩へ、秋月氏も日向高鍋へ落ち延び、藩は上杉鷹山などを輩出する。


 このようにめまぐるしく、この時代の武士は生きるに大変だった。

 領民との関係、国人同士の関係、巨大勢力との立ち回りなど、常に気をもむ戦国を果敢に生きた。何せ生きるか死ぬかだ。

 その居城は今も各地の山城にその痕跡を留めている。強者どもが夢の後だ。