響きホールは北九州市八幡東区にある。

 客席数720席と小ぶりだが、シューボックス型で、音響を重視した設計となっている。
 そのため奏者たちはこのホールで演奏することを楽しみにしているようだ。


 因みにシューボックス型ホールとは、直方体の形状をしたホールのこと。ヨーロッパではよく見かける。
 室内合奏団は、その音楽純度の高いホールの専属合奏団として、1998年結成された。
 プロとして、北九州の音楽文化をより一層レベルアップしようとの目論見だが、その技量は国内はおろか、遠く海外まで雄飛している。


 地方都市にあって北九州は異色ではあるが、それを支える土壌があると言うことだ。
 それはスポンサーになる御大尽はいなくとも、心豊かな音楽愛好の聴取者が5万といると言うことだ。


 雨交じりの昼下がり、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロの女性カルテットを迎え、医療法人健和会主催によるミニコンサートが華やかに始まるのだ。


 最初は、モーツァルト『アイネクライネナハトムジーク』、モーツァルトを代表する定番の楽曲、セレナーデ(夜想曲)だ。

 むしろ夜のしじまを、つき破るような賑々しい軽薄さを感じて好きではないが。
 

 次の、マスカーニ『カヴァレリア・ルスティカーナ』はオペラの間奏曲だ。物語はともかくとして、曲は哀しいほどに美しい。それはヴァイオリン、ヴィオラ、チェロによるユニゾン(斉奏)にあるようだ。

 演奏はゆっくりと、情感を押さえ、堪え、秘め、それは最後までストイックに発散することのない苦しみなのだ。
 

 続く、モンティ『チャールダーシュ』はツィゴイネルワイゼンと同じジプシーの悲しみの曲。
 ヴァイオリンのけだるくやるせない響きから、技巧的で早い曲調が悲しみを引き立てる。
 賑やかで華やかな中にも憂いは残る。激しい旋律は怒りの激情でもあるのだ。嫌悪され当て処もない流浪の民の永遠の悲しみの中にある。


 シューベルト『アベ・マリア』、緩やかなテンポ、包むような安らぎの旋律、慈悲の心だ。

 ピアノの華やかさがあれば厳かで煌びやかなものになるだろう。天から注ぐ一筋の光のそのように。


 ドボルザーク『ハンガリア舞曲』第5番、メジャな曲だが、これもジプシー由来のもの。

 ハンガリーの厳しい国情を反映して、叩くような弦さばきだ。曲は激しく変調する。そしてジプシーの悲しみが伝わる。


 ヘンデル『水上の音楽』、ヘンデルがロンドン滞在時の楽曲だという。しかもテムズ川での船遊びの余興だと言うから、優雅なことだ。その背景にその音楽は似合わないようだが、ヘンデルは即興で作ったのだろう。

 華やかなバロック音楽ではあるが、その軽やかな繰り返しに、どこかもの悲しい夏の終わりを連想させる。


 ホルスト組曲『惑星』、その中の「木星」はイギリスの愛国歌でありイングランド国教会の聖歌でもある。

 広大な宇宙にあって星々は明滅しながら巡る。暗黒の悠久の過去から現れ出でて、一瞬にしてすれ違う永遠の邂逅、想像を絶する偶然と神秘の世界だ。木星にはその臨場感がある。


 エルガー『愛の挨拶』、行進曲『威風堂々』と並ぶ優美な曲だ。

 婚約相手に捧げられた喜びの曲なのだが、どこか哀愁がただよう。その哀しみの旋律が日本人のナイーブで嫋やかな心性に届くのだろう。


  ボロディン『韃靼人の踊り』、韃靼(だったん)人は中央アジアに住むトルコ系、モンゴル系民族だ。

 曲は賑やかで妖しいオペラだ。征服した異民族への卑しめもあろう。
 もつれた糸のように、曲の拙速は踊りの迷いか、もつれた糸はどのようにほぐすのだろう。

 語るように問うように、それに答えることもなく曲は終わる。やはり異様で妖しいのだ。


 演奏は手堅く無難に終わった。それは歌うようにではなく、語るようにではあったが…。