翌朝は早朝宿を発って、藤沢を後にする。車内は既に混んでいる。
 大磯町は、神奈川県の湘南の西部に位置する。人口は約3万人。
 

 南は相模湾、北は富士山から続く丹沢山地の前衛、高取山などの大磯丘陵。この丘陵が町域の大半を占める。
 国道1号を初め、JR東海道本線、西湘バイパス、国道134号、小田原厚木道路(国道271号)が通じ、暖流の影響で気候も温暖なため、日本初の海水浴場や、湘南の海を望む別荘地、保養地として発展した。


 とりわけ、明治中期から昭和初期にかけて、伊藤博文や山縣有朋、西園寺公望、大隈重信、陸奥宗光、岩崎弥之助、安田善次郎、吉田茂といった政財界の要人の避暑・避寒地として邸宅や別荘が建てられた。

 明治の末年頃の大磯には150戸ほどの別荘があったと言う。今日の軽井沢のようなステイタスシンボルでもあり、政財界のサロンの謳い文句で売り出したのだろう。

 古代は豪族の師長国造(しながこくぞう)の支配領域であり、律令制下では、相模国東部を支配した相武国造(さがむこくぞう)の支配領域を併せ、相模国が形成された折りには、余綾郡(よろぎぐん)に属する。

 その郡衙は現在の大磯町国府本郷付近にあったと推定される。平安時代末期には余綾国府が置かれたらしい。

 中世には相模国府も置かれ、やはり枢要な位置を占めたようだ。

 江戸時代には東海道の宿場町として栄えた。街道筋にある松並木はこの時のものだ。
 

 駅前の観光協会で電動チャリを借りた。そこから一気にこぎ出して、旧東海道、国道1号に出れば、後は道なりだ。
 まず「鴫立庵」だ。命名は西行の「心なき身にもあわれは知られけり鴫立澤の秋の夕暮れ」に因む。「新古今和歌集」の「三夕の和歌」の一つだ。
 他に、寂蓮の「さびしさは其の色としもなかりけりまき立つ山の秋の夕暮」や、定家の「み渡せば花ももみぢもなかりけり浦の苫屋の秋の夕ぐれ」がある。
 いずれも、秋の夕暮れせまる里の景色を切り取って、ありありと眼前に再現する情景の鮮烈さ、しみじみともののあわれを感じさせる秀句である。
 

 そこから西に向かう。松並木に面した伊藤、大隈、陸奥、西園寺邸などは「明治記念大磯庭園」として整備することになっており、現在建物は修築中で、透明なビニルの幌の中なのが残念だった。

 さらに自転車を飛ばし、城山公園に右折する手前、国道の前方、ビルの谷間に真白き富士の峰が明瞭に遠望できた。

 天気男の冥利につきる。国府本郷はその先だ。


 「吉田茂邸」は火災により全焼したが、再築され、「大磯町郷土資料館別館」として公開されている。
 再現された贅沢普請を覗いた。一階は玄関の右手に暖炉のある洋風応接間、左手が大食堂だ。
 玄関脇の緩やかな階段を上れば、賓客をもてなす和風応接間「金の間」、そこからは富士山と相模湾が一望だ。

 隣が書斎兼寝室「銀の間」、まるで天皇並みの仕様だ。吉田はその部屋で逝き、そして国葬となった。

 スケッチは焼けずに残った門、渋い。