山手は、横浜市中区の山手町とその外縁部を含む一帯。
 横浜の開港後、幕末から明治にかけて外国人居留地だった。


 横浜港は1858年(安政5年)に締結された「日米修好通商条約」に基づき、翌年、武蔵国久良岐郡横浜村に開港された。

 この時の開港は、函館・新潟・神奈川・兵庫・長崎の五港であるが、その後この条約は英・仏・蘭・露とも締結された。(安政五か国条約)
 

 この条約は治外法権や関税自主権など日本側に不利な条約として、その解消が明治政府の悲願となった。

 この不平等条約は幕末から50年あまり後、1911年陸奥宗光や小村寿太郎等の外交努力により解消された。

 時代を駆け抜ける武士の和魂と坂の上の雲を目指す時代の趨勢がそうさせたと言える。


 横浜港は当初は生糸貿易の中心港として、後に京浜工業地帯の工業港、東京の外港として大きく躍進して今日に至っている。
 横浜港で陸揚げされたコンテナはガントリークレーによりトラックに移され、県庁前の「本町通り」を通って各地に運ばれたが、交通渋滞が頻発、そのため本町通を通らずに直接高速道路に入れるよう、港周辺の道路整備が求められた。

 

 「横浜ベイブリッジ」はこの道路整備の一環として、1989年に開通した。
 橋は「首都高速湾岸線」の本牧(中区)と大黒(鶴見区)の埠頭を跨ぐ長さ860mの斜張橋、2本の塔高172mから伸びるケーブルは白鶴が翼を広げたように優雅で流麗だ。橋げたは55mと言うから目もくらむような高さだ。それが港を塞ぐように横たわる。「港の見える丘公園」からの絶景はこの橋の美しさにある。


 さて、目的の「山手」は英語でYamate Bluff(断崖、絶壁)と呼ばれる。 

 Bluffには「はったり」の意もあるな、いわゆるブラフだ。
 外国人居留地はまず関内に設けられたが、そこが低湿で狭隘であることから、住宅地としてより条件の良い堀川南側の高台が注目された。関内の居留地は「山下」と呼ばれる。


 西洋人は低湿地を嫌う。神戸も函館も、居留地は高台にある。歩くのは大変と思われるが、風水でもあるまいし、コレラなどが猖獗を極めた時のトラウマがあるのかも知れない。
  中世ヨーロッパでは、多くの伝染病が流行した。中でも最も恐れられたのが黒死病、ペストだった。だから山の天辺に集落がある。敵から身を守るためもあるのだろう。


 居留地は明治32年の条約改正により廃止となり、山手町が設置された。
 関東大震災では大きな被害を受け、以後この区域に住む外国人居留民は激減したが、異国情緒だけは残ったとある。
 

 横浜は2度目だ。恐らく横浜駅は大きく複雑だろうと二の足を踏んだ。そして案の定迷った。よくあることだ。
 車窓の眺めも御多分に漏れず、立錐の余地なく住家が密集して、樹木は見えない。
 これが大都会の息詰まる風景だ。緑がないのは苦しい。それが二の足を踏ませる原因かも知れないと思う。


 地下鉄みなとみらい線の終点「元町・中華街駅」で下車、そこが「アメリカ山公園」、そこを抜ければ右手に「外人墓地」が、それに脇目を振りながら坂道を登る。
 登り切れば道は平坦になり、下校時も重なって、向こうから女学生の一群が押し寄せてくる。

 前方に小中高一貫の女子校があるのだが、その一群は軽やかなチャットを残して、行列のようにすれ違う。

 女子校は、当方お気に入りの「エリスマン邸」や「べーリック・ホール」のある閑静な一隅にある。名門女子校なのだろう。


 来た道を戻って、海側に折れると、メインの「イギリス館」がある。英国総領事公邸だ。

 その広庭に続く先に「港の見える丘公園」があるのだ。園内には「大佛次郎記念館」やスパニッシュスタイルの「山手111番館」がある。
 そのプティで瀟洒な洋館は白い壁に赤い屋根、玄関先の植え込みも真っ赤なバラに色づいて、なるほどスペイン好みの赴きだ。

 夕暮れ迫る丘にほのかな暖色を留めていた。


 長居は無用だ。その日は藤沢まで引き返し宿を取る。翌朝を短縮するためだ。
 藤沢までの車中はぎゅうぎゅうのすし詰め状態だが、乗客は黙して語らず、家路を急ぐ。
 夕食に駅前の居酒屋に立ち寄り、旅の余韻に一献を傾けたのは言うまでもない。
 スケッチは、「べーリック・ホール」、暮れなずむあたりの風景に溶け込んで、実に渋い面持ちだ。