JR久大本線の沿線、玖珠町は大分県の中西部にある。
 久住山系を背後に、万年山や伐株山といったメサ(卓状台地)が点在する。

 メサとは、山の裾野が侵食され、テーブル状になった台地のこと。

 裾野が狭く、切り株状に屹立する様は、まるでおとぎ話の世界だ。四国の屋島や琴平山などに類例がある。
 流れる川は玖珠川、やがて筑後川に繋がる。不思議な山々に囲繞された不思議な空間なのだ。

 そして日本一の食味を誇る米どころでもある。
 それは恐らく、盆地特有の水の豊かさと寒暖の差、何より、山から流れ下る中小河川が運ぶ肥沃な土壌の堆積、盆地を囲繞する山々がもたらす豊穣の恵みなのだ。特異な地形から「耶馬日田英彦山国定公園」に指定されている。
 
 江戸時代は久留島氏による森藩として、豊後国日田郡・玖珠郡・速見郡内を領した。
 廃藩置県により森県となるが、すぐに大分県に編入される。
 明治22年の町村制により玖珠郡森村、同26年森町となり、昭和30年に新設合併により玖珠町となった。

 森町は全国に散見するが、先頃は遠州森町を訪ねた。森の石松の故地である。
 そこも盆地ではなかったが、町の中心を太田川が流れ周囲は豊かな森だった。
 恐らく地名の「森」は盆地由来の名ではなかろうか?

 来島氏は、村上水軍で有名な伊予村上氏の一族、村上から来島に改姓し、秀吉のもとで水軍として活躍した。

 関ヶ原の戦いの後、この地に移封、久留島と改め、廃藩置県の後は子爵となった。その末裔に童話作家の久留島武彦がいる。
 彼の代表作に童謡『夕やけ小やけ』がある。玖珠の夕景を詠んだのだろうか、どこにでもある情景だが、夕暮れ時は心にしみる。まして昔日の農村を照らす夕暮れだ。
 毎年5月5日端午の節句に「日本童話祭」が開かれ、玖珠川には鯉のぼりの大群が泳ぐ。

 愛媛県今治市には今も「来島ドック」が健在だ。自動車運搬船やケミカルタンカーなどを建造している。
 だが、玖珠には海がない。海の民は陸に上がり、その末裔は海を目指す。
 知人に当地出身の暁の女性ライダーがいる。初日の出にも太平洋を目指した。

 町の中心にある豊後森駅を下車、駅前に宿をとり、その夜は近くの居酒屋で痛飲した。

 翌朝は盆地特有の朝霧、氷点下の凍てつく空気の中を、レンタサイクルを駆った。
 昨日の痛飲が祟って頭も腹も調子が悪い。いつものことだが、何時までも学習の効かないだらしないのんべーを恥じる。

 国道387号線を北上、「来島武彦記念館」や「豊後森藩資料館」などのある「三島公園」を目指す。
 この国道387号は、大分県宇佐市から熊本市に至る総延長132.9㎞の一般国道、九州の脊梁を跨いで南北に縦貫している。豊前宇佐郡に島原領があったことからすると、この道は島原藩の参勤交代路だったのだろう。

 公園までの道中には森藩の城下町が残る。町はすっかり整備されて、明るく瀟洒だ。

 そのどん詰まりに公園はある。藩政時代は森藩の陣屋が置かれた。
 庭園が残されており、池の周辺は石庭の趣だ。見上げる寄棟造りの「栖鳳楼」も古錆びて味がある。

 庭園の茶室であり望楼だったのだろうか。庭園の奥にある梅園の老木も苔むしたまま悄然と寒に堪えている。

 その樹間の先に、かつて中世の山城「角牟礼城」はあった。
 源為朝の築城とされるが確証はない。全山が曲輪や竪堀で巡らされており、島津・大友の激しい戦役でも落城しなかったといわれる天然の要害だ。
   
 久留島武彦記念館に寄った。ここの館長は韓国人、武彦研究で来日したまま館長に座ったのだ。

 本人は玖珠は寒いと、別府から通勤しているそうだが、韓国はもっと寒かろうと思う。あいにく出張で不在だった。
 縁側には日だまりもあって、館内は明るく、武彦の直筆原稿や直筆の日本画が陳列されている。

 画家としても素晴らしい。童話に登場する主人公がモチーフだ。筆の輪郭が逞しく、彩色は原色のままの淡彩画だった。
 スケッチは「栖鳳楼」全景だ。