遠江は別名遠州、領域は静岡県の大井川以西、以東は駿河、伊豆の国々が連なる。
 律令の国格は13郡からなる上国だ。国府も国分寺も現在の磐田市にあった。


 国府に付随する総社は「淡海國玉神社」(磐田市見付)、一宮は森町にある「小国神社」らしい。

 この小国神社、伊勢のおかげ横丁のような賑わいがあると紹介されたが、行くには遠く、断念した。


 古くは都から遠い「遠淡海国(とほつあはうみのくに)」と表記された。
 近江国の「近淡海(ちかつあはうみ)」の琵琶湖と対比される。「遠淡海」は浜名湖のことだろう。


 浜名湖はかつて淡水湖であったが、明応7年の「明応地震」やそれに伴う津波により、湖の砂提が決壊し現在のような汽水湖となったという。


 さてその沿革だが、
 神武東征により故郷を追われた伊勢津彦(伊勢津彦と言うからには本貫は伊勢か)は、一族と共に東方へ逃亡、一族の美志印命が素賀(遠江海東部)国造に任命されたとされる。(『先代旧事本紀』)


 古墳時代には倭建命の東国平定に伴って物部一族が次々に国造に任命される。
 ここにも物部氏族の扶植が語られる。記紀には物部の祖、饒速日命(にぎはやひ)が神武に大和の地を国譲りしたとの伝えがある。


 蘇我氏に滅ぼされた物部一族は東国へ転進したのかも知れない。 
 律令時代にはそれら国造の領域を併呑して遠江国が設置された。


 国府所在地は、『和名抄』では豊田郡、中世では「見付」(現在の磐田市)とされる。
 木簡や墨書土器が出土したことから、「御殿・二之宮遺跡」が遠江国府と推定された。


 室町時代には斯波氏・今川氏が守護に補任され、戦国時代は今川氏が斯波氏を圧倒して領国化した。
 今川氏が滅びると、今川領は分割され、山岳部や丘陵部を武田氏が、家康は平地部を治めるが、家康は浜松城を築いて武田氏と対峙した。


  この浜松城こそ、元亀3年、武田の挑発に乗った家康が出撃し、武田軍の反撃に遭って這々の体で逃げ帰ったかの城だ。

 歴史に名高い「三方ヶ原の戦い」のことである。


 安土桃山時代には、家康は関東八カ国に転封、代わって豊臣系大名が配置される。
 江戸時代になって、遠江国には浜松藩と掛川藩が設置され、徳川譜代となる。