翌早朝、足助に向かう。東岡崎駅から名鉄バスに乗り1時間ほどの行程だ。

 バスは市街を抜け、千メートル級の山が連なる美濃三河高知の山懐を目指す。そこを抜ければやがて信濃へ、道は飯田街道だ。
 

 足助町は、尾張・三河から信州を結ぶ中山道の脇往還「伊那街道(中馬街道)」の中継点にあたり、古くから交通の要所として栄えた。

 中山道は馬籠などの木曽路を行くのだが、この伊那街道と併走して北上し、やがて塩尻あたりで合流、再び分かれて北に向かう北国街道と東に向かう中山道に、中山道は今日の長野新幹線に重なるのだろう。


 三河湾で採れた塩や海産物を信州や美濃地方へ運び、帰りには山の産物を持ち帰って、尾張や三河方面に送り出すという陸運の中継交易だ。

 奥深い山間地、他に生産手段のない彼らにしてみれば、それこそが生きる術であり、交通の要衝だったことが幸いしたのだ。


 町並みは、戦国時代に原型が形成され、江戸初期には今日の町割りになったが、安永4年の大火で、町並みの大部分が焼失すると、何処の商家がそうであるように、軒先まで漆喰で塗り固めた塗籠造りの町家に変わった。

 その妻入りや平入りの家並みが愛知県初の国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されたのだ。
 

 町は、東西に延びる街道沿いに広がっており、街道を巡れば一巡する。
 西の入口、宮町は紅葉の名所「香嵐渓」の玄関口だ。
 鎮座する「足助八幡宮」はその名のとおり、足を助ける神とある。街道を往来する旅人に御利益もあったろうか。


 続く新町は足助川の右岸になる。「普光寺」には「賓頭尊者(びんずるそんじゃ)」が祀られる。

 この賓頭尊者、聞き覚えがある。先頃、善光寺が盗難に遭った彼の霊験あらかたな仏がそれだ。特段体に痛いところもないのでやり過ごしたが、こういった山間の地域にはその信仰が根付いているのだろう。十六羅漢の一人だ。


 足助には小路が多くあり、中でも「マンリン小路」は狭い坂道の左右に蔵が迫っており、その板壁の黒と漆喰の白のコントラストが美しい景観となっている。


 本町の「田口家住宅」に立ち寄った。中では同年代の女将が悄然と座っていた。
 陽は中天に上るというのに、観光客は吾一人といった寂しさだ。退屈しのぎに話も弾んで、貴重な話も聞いた。
 当家は「万屋」の屋号のとおり、江戸から明治にかけて製茶業に始まり、菜種油や金物、肥料をはじめ、モータリゼーションの先駆けとして大正時代にはガソリンスタンドまでも、多角的に経営したようだ。土間の地下には今でも当時の石油タンクが残されているとか。

 屋敷の構えは京都の町屋と同じく、間口は狭いが奥に長く、その中に3棟の土蔵や居住空間がほどよく配置されている。
 

 先にある加東家の裏手にはかって陣屋もあった。この陣屋は年貢取り立ての役所だ。
 後には伊那県足助庁舎、郡役所から町役場となり、今はすっかり整地されて更地になっている。


 つづく田町の「足助中馬館」は大正元年に建てられた銀行社屋を改装したもの。足助の商業や金融・交通・町並み等の資料を展示している。

 案内の叔母さん相手にひとしきり話し込んでると、ならばと屋外の橋上から香嵐渓の眺めを指し示してくれた。

 全山が紅葉するそうで、その時期には大層賑わうらしい。
 

 田町をさらに進むと、左手に足助の隠れた、ここも紅葉の名所、観音山がある。
 その麓に佇む「小出家住宅」が一幅の絵なのだ。それを見たくて足を伸ばした。
 帰りは足助川対岸の県道を歩き、バス停に戻る。バスは定刻にきた。紅葉の時期はこうはいかないだろう。

 スケッチは順に、マンリン小路、小出家住宅、バス停前の商工会館