岡崎市は、愛知県の中央部、西三河地域の中心都市である。
 中世には鎌倉街道、江戸時代には東海道が走り、その宿場町として、また岡崎城の城下町として栄えた。


 鎌倉時代には将軍家の知行国「関東御分国」となり、三河守として細川氏、一色氏、今川氏などが配属された。
 室町時代にも幕府直轄領「御料所」として、将軍直属の軍事力「奉公衆」が置かれる。

 

 そして1524年、松平清康が岡崎を領し、岡崎城を居城とした。

 清康の死後は今川氏の庇護下に入るが、市域は今川と織田の抗争の場となった。
 

 桶狭間の合戦で今川が織田に敗れ、配下の徳川元康は大高城から岡崎城に逃げ帰り、家康と改名する。

 以後は、織田信長の盟友となり勢力を拡大する。


 この岡崎城、武田信玄の侵攻に備えるため、家康が浜松城に移ったのちも、長男信康が城主を務め、本能寺の変による伊賀越えの際には、逃れた家康がここに帰還している。


 家康の関東移封により、その後釜に豊臣家臣・田中吉政が岡崎城に入る。
 吉政は家康の抑えとして城を拡張し、石垣や城壁などを整備するが、秀吉の死後家康に接近し、関ヶ原の戦いでは家康側についた。城下町の整備も進め、東海道を城下に引っ込み、岡崎城下の原型が造られた。


 江戸時代には岡崎藩となり、家康誕生の地として別格の扱いを受け、家康の位牌は、菩提寺の「大樹寺」に納められた。
 江戸中期には矢作川沿いに綿作が盛んに行なわれ、三河木綿として特産品となったが、現在は八丁味噌や花火、石製品などが地場産業だ。


 岡崎に見るものは多くない。数点のスポットがあるが取り立てて見るほどのものはない。

 ネットから調達した地図を片手に散策を試みたが、地図と実長の乖離が酷く、半端ではない暑さに負けて、歩くには遠すぎると観念した。だからパスだ。


 念のため、歩道上で交通安全の幟を掲げる女性に聞いてみた。曰く、「取り立てて見るべきものもなし、歩くも難儀、さすればタクシーを勧める」と、さもありなん。彼女は役場職員だった。


 早速タクシーを呼ぶが、10分はかかるという。流しもないので待つことにした。
 そのタクシードライバーは元トラックの長距離運転手、近頃引っ越してタクシーに乗り換えたようで、地元のことは凡そ知らないと言う。

 

 とりあえず地図に沿って走らせると、世間話に花が咲いた。全国を股にかけたトラック野郎だったのだ。

 そしてトヨタのカンバン方式、いわゆるジャストインタイムに嫌気がさして辞めたのだという。

 トヨタの下請けいじめも、ひとしきり聞いた。岡崎は見るものは大してないが、聞くべき情報は埋まっている。


 タクシーを降り、八丁味噌本舗を周回、併設の店舗に味噌ソフトクリームを所望して、このあたりの地理を訪ねるが、その愛想の悪いこと、きびすを返して岡崎城へ向かう。


 ふと思う。この地の味噌を始め、愛知県が発酵食品の一大産地になりえたのは、幾条にも流れ下る河川にあるのではないかと、    それが信州の山奥に発し、流域の田地を潤しながら、多くのミネラルや微生物を運んだのではないかと。

 そうして麹菌などの繁殖を助けたのだろう。そして地下には澄んだ伏流水が、三河湾には海水も海風もある。そういった自然条件の総体なのだ。

 スケッチは岡崎城、手前の像は幼少の家康と晩年の家康