車窓は早くも田植えの準備に忙しい。
 冬の寒さに耐えた麦秋の麦も刈り入れを待っている。


 五月というのに陽射しは強く、今日は真夏日だという。熱中症も心配されている。
 近頃は季節の移ろいが早く、すでに夏だ。この分だと梅雨の到来も早かろう。その間隙を縫って出立となった。


 目指すは、名古屋市内にあって江戸時代の面影を残す町、有松だ。
 旧東海道の「池鯉鮒宿(ちりゅうのしゅく)」と「鳴海宿(なるみしゅく)」の間、近くに「桶狭間」もあるぜよ。
 

 尾張藩が課役免除するなど特典を与え、木綿産地の知多郡から入植させたのが始まりだが、東海道を往来する旅人の応接をするなかで、土産物として有松絞りが考案され、産地として栄えた。


 これには裏話がある。尾張国に移住した豊後国府内藩の藩医の妻により、豊後絞りの技法が伝えられ、これと知多郡の手織り木綿を結びつけた合作だったと言うのだ。意外なところで豊後が顔を出す。


 その豊後、豊後国高田荘(大分市東部)では、鎌倉時代に相模国から地頭として下向した三浦氏の一族によって、木綿の栽培が始められたという。豊後絞りも明治の半ばに姿を消したが、近頃復活しているようだ。


 この有松絞りも、明治以降は東海道の往来が激減したため一時衰退するが、その後新たな意匠や製法の開発により再興、明治後期から昭和初期にかけ再び繁栄したとある。


 今日、絞り染めは、伝統工芸として受け継がれ、繁盛した商家の街並みは、往時の繁栄を今に伝えている。
 東海道筋には、800mに亘って、卯建の上がる屋根、塗籠造(ぬりごめづくり)、虫籠窓(むしこまど)などの伝統的建造物群に、絞商の豪壮な屋敷構えと絞り職人の町家が混在する。


 天明4年、村の大半が焼失する大火に見舞われたことから、復興にあたって、火災に強い建物として、そのような建築がなされたのだ。それが国の「重要伝統的建造物群保存地区」及び『日本遺産』に認定された。


 中でも、有松最大の「服部家住宅」は、寛政2年(1790)創業の絞問屋で、連子格子になまこ壁、虫籠窓、塗籠造など、典型的な町屋建築となっている。


 駅前の旧東海道を左右に歩いた。何時になく観光客で賑わっているようだ。外人もいる。
 町はこじんまりとして、明るく、きれいに整備されている。歩けばものの30分で終わるが、短い中にも町並みの統一感があり、町も華やいで良い町だと思った。
 

 大都市が控えているので、どの家も羽振りは良いようで、落ち着いたカフェーでもあればと思ったが見当たらなかった。
 涼を求めて「有松絞会館」を覗いてみた。


 有松絞りは、木綿布を藍で染めたものが代表的、糸のくくりの技法と、技法の組み合わせによって生じる多彩な模様は70種類はあるという。すべての工程がほぼ手作業によるため、手間と時間を要するが、その肌触りと色合いには定評がある。


 何せ暑い。少しの土産を買って駅に戻り、次の目的地岡崎へ車中の人となった。
 スケッチはその服部家住居だ。