ホテルからうきは駅までの道のりを歩き、うきは駅から隣の筑後吉井駅で下車する。
 この日も朝の冷えこみは残る。山間の谷間に陽光は遅いのだ。しかも烈風。


 旧吉井町は白壁土蔵造りの町だ。

 三度の大火に襲われたこともあり、明治時代には耐火性の土蔵「居蔵屋」が立ち並んだ。その数162軒が残る。
 江戸時代は豊後街道の宿場町として、また、大石・長野水道の開削により、筑後川の舟運にも繋がったことから商品作物の集散地ともなった。

 江戸時代末期には酒、油、櫨蝋等の商品作物の製造、加工、集散の場となり、吉井銀と呼ばれる金融業も栄えた。
 

 駅からは、巨瀬川を渡り、このあたりからが町並み保存地区だ。
 この巨瀬川、耳納山地に端を発し、「調音の滝」「魚返りの滝」「斧渕の滝」などに渓谷美を見せながら、平地のうきは市や久留米市を貫流して筑後川に合流するのだが、地名の「巨瀨」が気になった。


 佐賀県の巨勢が発祥のようだが、有力豪族巨勢氏に由来すると伝える。
 巨勢氏は大和国高市郡巨勢郷を本拠とした古代豪族で、姓は臣から、天武朝の八色の姓により朝臣を賜った。その出自が佐賀だというのか? 地名の由来からも巨瀨氏がこの地に居住したか?


 なにせ「月岡古墳」の被葬者は大和から派遣された有力者だという。
 その月岡古墳は墳丘長80mの前方後円墳、後円部の竪穴式石室からは、畿内で見られる長持形石棺を納めている。

 副葬品は、金銅装眉庇付鉄冑1や眉庇付鉄冑7、金銅装臑当などの金銅製の豪華武具馬具多数だ。


 国道210号線に出て、「白壁通り」を北上すると、江戸時代から続く旧家、大地主の農家住宅、国登録有形文化財の「南久保田家住宅」がある。
 だが、210号バイパスを跨いだ先にある彼の地は茫洋として遠く、足が渋った。スマホ地図にも見えないのをいいことに断念した。


 ならばと引き返して「吉井歴史民俗資料館」に寄る。

 ここの圧巻は先ほどの月岡古墳の副葬品だ。金銅製の武具馬具は第一級の考古資料、お宝だ。

 これだけの金銅製品は新羅以外には考えられない。それも王権を経ずに直接手に入れた代物だろう。


 事務の女性がつきっきりで対応してくれた。学芸員の資格をお持ちだとか、それもあり、懇切に思いの丈を話してくれた。

 時間超過は言うまでもない。かくの如く、この地は古代史論議に尽きない地なのだ。


 急ぎ戻って、「菊竹六皷記念館」には人気がない。

 菊竹六鼓(1880-1937)は福岡県出身のジャーナリスト、五・一五事件に際し、福岡日日新聞紙上で敢然と軍部批判・憲政擁護の論陣を張った。福岡日日新聞は今日の西日本新聞、地方にありながら志操は固く、六鼓の精神をよく受け継いでいるように思える。この地からは鳥越俊太郎や日田の筑紫哲也が続いている。母なる大河は反骨の気風を育むもののようだ。
 

 旧郡役所であった屋敷型建造物の「鏡田屋敷」や典型的な居蔵造りの「居蔵の館」に立ち寄り、管理人の説明に付き合い、慌てて駅へ戻った。

 今日の歩数は14,000歩。そしてスケッチは大石・長野水道に影を落とす家並みだ。