うきは市は、福岡県の南東部、大分県の日田市や筑後川を挟んで朝倉市と接する。

 交通は久大本線と国道210号が東西に走る。
 福岡県には珍しく、2005年に浮羽町と吉井町が新設合併して、うきは市となった。
 合併後の人口は3万4千人だ。後門に耳納山地が聳え、前門に筑後川が流れる。


 長かった寒の戻りにより、縮こまった体を解きほぐそうと、旅に出た。一泊二日の小旅行だ。
 先般来、旅も近場の農村風景にスタンスを変えた。農村風景こそが原風景である身からすれば、ようやく帰り着いた居心地の良い時空というと言うことになる。


 この地もかつてドライブで訪れた。これまで多くの見知らぬ地域を訪ね歩き、その記憶を糧に、改めてふるさとの農村風景を見つめ直すよすがにしたい。そして、帰りなんいざ、田園まさに荒れなんとすだ。


 耳納山地と筑紫山地を貫流した筑後川本流は、高地からの支流を集め、奔流となり、巨大なデルタとなって、有明海に注ぐ。
 その流域に人は集住し、勢力となり、その営みは歴史を形成する。

 かつてこの地は邪馬台国の勢力圏ではなかったか? ここを発した王権は東遷し、大和に安住の地を見いだした。

 その後も東遷の流れは止まず、大和王権としての中央集権体制を整えてのち、この地に凱旋する。


 それが斉明女帝の「朝倉宮」ではなかったか? だがこの地は大和王権を受け入れなかった。

 そして斉明帝はこの地で忽然と崩御する。
 そのような曰わく付きの地だ。この筑後川を巡る一大対抗勢力圏が存在したのではあるまいか。あるいは狗奴国の生き残り?
 

 点在する古墳群は九州様式の装飾古墳だ。墓室の壁などを彩色などで装飾した古墳だが、福岡市八女古墳群には磐井の乱の主、筑紫君磐井も眠る。装飾古墳はその磐井の影響下にあったとされる。
 この地にも珍敷塚古墳や鳥船塚古墳など多くの装飾古墳が見られる。


 古墳はかつて渉猟したので、今般は割愛したが、歴史のダイナミズムが感じられて見過ごすわけにはいかない謎の地なのだ。
 久大線うきは駅を下車、道の駅に予約しておいたレンタサイクルを駆って、周辺を漕いだ。

 懐かしい田園風景だが、圃場はすっかり整備されている。
 

 途中、ホテルに荷物を預け、向かう先は筑後川と小塩川が交わる「長野水神社」だ。
 大干ばつを機に、五人の庄屋が筑後川の流れに堰を設け、田圃に水を引く開削工事を行った。その水路が「大石・長野水道」、水神社は庄屋達を祭神とした。今ではこの偉業を学校教育にも取り入れているという。


 懸命に漕ぐが、何時までたっても筑後川にたどり着けない。
 広域の絵地図は当てにならないし、そして肝心なスマホまで逆方向を示す始末、すっかり迷子になってしまった。

 それもそのはず、道は大きく右にそれ、次に予定するその「大石堰」に向かっていたのだ。ならばそちらを先に。


 かくなる上は沿道の人に聞くに如くはない。結局4人もの人を煩わせ這々の体でたどり着いた。

 一人は予定の場所に急ぐ老婆、二人目は農作業途中の老爺、わざわざ仕事の手を休めて対応してくれた。最後が目的地にもほど近い醤油醸造元の若夫婦、物好きな旅行者に嫌な顔一つせず、愛想良く対応してくれた。感謝。

 旅の恥はかきすて、これも貴重な思い出だ。


 堰は水勢が緩くなる蛇行部分にある。そこから平野部にかけて水路を分岐するのだ。
 何せ人力による石のもっこ担ぎだ。難工事だったろうことは容易に想像がつく。
 川岸には五庄屋遺跡の一角があり、祠も建っている。

 そこから川堤を辿り、迷うことなく長野水神社へ、このあたりで小塩川と水道が合流して、筑後川にはき出されるのだ。
 

  うきは駅に向かい、山腹にある「浮羽稲荷神社」を一瞥、県道から社殿まで階段が登っており、その階段に鳥居が並ぶ。壮観だが登る気にはなれなかった。
 「浮羽歴史民俗資料館」に立ち寄るが、あいにく管理人は大石堰を案内中とかで、玄関は閉まっていた。

 隣接の装飾古墳「楠名古墳」「重定古墳」を再見し、国登録有形文化財の「楠森河北家住宅」に向かう。
 

 800年続く旧家で、竹垣の「壁結」や台所の巨大なエビの注連縄など、中世を彷彿させる民俗祭事が残るという。

 河北倫明の生家でもある。倫明(1914-1995)は、京都国立近代美術館長や京都造形芸術大学長などを歴任し、美術評論家として一世を風靡した。大分の県美展の審査委員だった記憶がある。


 近くに日本名水百選の「清水湧水」があり、覗いてみた。水は温くねっとりとしている。甘露なのか?
 レンタサイクルを返し宿へ、近くはない道をとぼとぼと歩く。歩数は9,000弱だが、自転車は漕いだ。

 明日は烈風が吹くらしい。しかも西北西、まともだ。 

 道中の農村風景をスケッチした。