例えば「日本は小国だ」論。これほど通俗的な物言いはない。(もちろん謙遜して言うなら別であるが。)日本の人口は一億三千万で、この数字は世界でもトップ10に入る。いくら不況とは言え、日本が未だ経済大国と呼べることは疑いがない。資源にしても、尖閣沖の油田は相当な埋蔵量がある可能性がある。石炭にしても国内で生産を止めたのは、どちらかと言えばコストの問題だろう。それに次世代のエネルギーとなる可能性があるメタンハイドレートも、日本近海に相当量眠っているという。もちろん我が国が資源大国でないことは確かだが、果たして本当に天然資源のない国と言えるかどうかは怪しい。
 そして何より俗説に惑わされているのが面積だ。世界地図で見れば、(支那やロシアが近いだけに余計)日本の国土は小さい。が、本当に「小国」なのだろうか。次に挙げるヨーロッパの国々のうち、日本より面積が大きい国はどれか即答できるだろうか。

イギリス
フランス
スペイン
イタリア
ギリシア
フィンランド
ノルウェー
ドイツ(東西合併後)

 答えはフランスとスペインのみである。他の国は少なくとも数値上の国土面積は日本より小さい。
 何も日本はこんなにもデカいんだと言うつもりは毛頭ない。欧州各国よりは大きくても、イランやイラクやインドネシアやブラジルなどよりも小さい。が、我々は日本が小国であると同じように、イギリスやドイツやイタリアやフィンランドやノルウェーを小国だと思っているのだろうか。彼らが、「我々は小国である」と言ったときに、我々は素直に首肯できるだろうか。

 さて、今年は「日本に於けるドイツ年」でもあり、我らが朝日伝聞にもドイツにまつわるエッセーがいくつか連載されているようだ。「専門は教育哲学、思想史、死生学」なのだという京都大学大学院教育学研究科教授の鈴木晶子なる人物が、コラムで以下のようなことを書いていた。

「生活圏」侵したら、離婚の危機

--引用--
 ドイツでは離婚の理由として、「生活圏の侵害」というのがよく挙げられます。「生活圏」――ドイツ語では「Lebensraum, Lebenskreis, Lebenssphaere」などと言われます――、直訳してしまうと、自分が生活している場所とか生きている世界、テリトリーといったところでしょうか。
 ドイツ人に言わせると、自分が自分らしい人生を歩んでいくのに必要な世界といった意味を持つようです。
 確かに、共同生活というのは、新婚で熱々の時代はいいけれど、長くなってくると、自分のペースと相手のペースがうまく合わなくて困ったり、お互いに干渉しすぎて疲れてしまうということはままあります。
 お互いに適度な距離を保って、関係を続けていくためには、それぞれが自分の世界を持っていないと困ったことになると考えると、この「生活圏」という言葉の重要性が分かってきそうです。
 この言葉に、さすが、周りの国と陸続きの狩猟民族の発想だなあと感心しているのは、私だけでしょうか。狭い島国の日本の場合、一緒に暮らす二人は、考え方や感性、価値観、そして性格までも一致している方がいいと、一般的には考えられていますよね。
--引用終--

 まあ、なんと通俗的な物言いか。「周りの国と陸続き」はよろしい。が、「狩猟民族の発想」はどうか。ヨーロッパ人は“狩猟民族”で日本人は“農耕民族”のような俗説は21世紀になってもよく目にするが、考えてもみてほしい。ドイツだってここ2000年は、日本人が米を育てて食ってきたように、麦を育てて食ってきたはずである。そして日本人も、おそらく彼らが農耕生活を始めた時期よりは遅くまで、狩猟生活を行ってきたはずである。ドイツ人のみが何故「狩猟民族の発想」なるものを編み出したというのか。ドイツに「周りの国と陸続きの狩猟民族の発想」があるというなら、フランスにも、オランダにもスペインにもイタリアにもオランダにもそうした発想がなければおかしかろう。尤も、彼の国々もドイツと同様「農耕民族」だと思うが。
 それに、「狭い島国」を我々が認識できるようになったのは、せいぜいが中世の西洋人上陸以降ではないのか。一体何を以てこの国際派気取りは、日本人の心理傾向を領土の狭さに根拠づけているのだろう。心理傾向が地理に依存するとすれば、そんなのはどちらかと言えば行動範囲(ムラ)の狭さに起因するものだろう。

 アラブ人の文化やイスラム教の成立に近東の過酷な気候が起因していた、というならまだ分かる。だが、ヨーロッパの、それもごく一部の地域の文化や考え方が、「農耕民族」やら「狩猟民族」やらといった粗雑な分類に還元できるわけがない。思想史を専門とするという大学教授が、このようなコラムを大新聞に不用意に書いてしまう知的状況について、思想史の立場から検討が必要なのではないだろうか。