酔夢ingVOICElog別館 などで扱われているので、遅れ馳せながら弊blogでもを取り扱ってみる。憲法記念日朝日の社説 今週中には消えてしまうので、まあ未読のかたは読んで慨嘆して欲しい。


--引用--
「あなたは改憲ですか、護憲ですか」と街頭インタビューで聞かれた30代の男性は「どっちかって言うと改憲な感じです」と答えた。

 憲法をゼミで学ぶ大学生はこう言った。「護憲ってダサいし、就職にも不利っぽいかも」

 憲法といえば、かつては思想や民主主義をめぐる路線がぶつかりあう硬いテーマだった。ところが最近は気分やスタイルの問題みたいな雰囲気が漂う。
--引用終--


 まず、何処がやった街頭インタビューなのだろうかが気になる。新聞社かテレビ局か雑誌かによってインタビューイの反応は異なるだろうし、テレビ局でもNHK総合とフジテレビでは、フジテレビでもスマスマと報道2001ではやはり異なる反応が得られるだろう。その上、インタビューイにしてもその答にしても、昼間の丸の内などと、夜の神田などでは必然的に異なってくる。ましてテレビでも新聞でも、編集者が望むセンセーショナルな回答の部分だけを切り張りして使っている場合が少なくない。
 そうした経緯を明らかにせずに「かつては思想や民主主義をめぐる路線がぶつかりあう硬いテーマだった。ところが最近は気分やスタイルの問題みたいな雰囲気が漂う」と書くのは、悪質な印象操作と言うほかない。しかも「気分やスタイルの問題みたいな雰囲気」を漂わせているのは上記のように改憲派のほうだという印象操作にすらあるのではないか。まるで「(護憲派が多かった)かつては(中略)硬い(=真面目な)テーマだった」とでも言いたげだ。実際は政権を取ったら自衛隊を認めた旧社会党みたいな手合こそ、「気分やスタイルの問題」で反自衛隊を語っていたのだというのに。
 だいたい全国紙の社説に「気分やスタイルの問題みたいな雰囲気」と書くのは文章として妥当なのだろうか。「気分やスタイルの問題であるかのような雰囲気」とでも記すのが定型というやつではないのかね。こんなんでよく「受験に朝日」などと臆面もなく言えたものである。それから学生も学生だ。そもそも採用の場で護憲か改憲かなど訊かれない。訊くようなDQN企業は社会に訴えて指弾したほうがいい。就職に護憲も改憲もないのである。憲法をゼミで学ぶとは法科か政治学科あたりだろうが、ちょっと足りないんじゃないかね、この学生は。まあ、この“インタビュー”が捏造ではなかったとしての話だが。


 改憲と言えば九条がすぐ引き合いに出されるが、なぜ九章(憲法改正の手続き)を問題にしないのだろうか。硬性憲法がそんなに素晴らしいと思っているのだろうか。硬性憲法のアメリカは、修正条項で実質的な改憲を行っている。日本も改憲にせよ修正条項の付加にせよ、もっと容易にできるよう(少なくとも憲法修正の法案提出ぐらいは大騒ぎせずとも済むよう)修正すべきではないのか。
 「旧西ドイツは戦後10年ほどの間に憲法を改め、再軍備に踏み切った。東西冷戦の最前線に位置し、西側陣営の圧力があってのことだが、それには徹底したナチスの断罪と隣国との和解が大前提だった。」とある。兵役拒否制度こそあるものの徴兵制まで敷いていて、日本に比べたら「やる気マンマン」のドイツを辯護するために必死だなとしか言い様がない。ポーランドの議会でドイツの「戦争賠償の請求決議」(ユダヤ人などの殺害ではなく)が決議されたという話 は、他ならぬ朝日が去年の十月に報道した事なんだがね。半年経ったという名目を良いことに、都合良くその記事をwebから消してしまったようだが。
 さあ、ドイツが隣国とどう「和解」したというのだろう。現在のドイツの元となった当時の西ドイツは、「東側」のポーランドとは和解できなかったと言う気だろうか。それならば日本も「西側陣営の圧力があってのことだが」少なくとも戦後六年以内に西側諸国とは和解し、ソ連や支那などとも順次和解したはずであって。そもそも和解する必要がないという話はともかくも、当時の問題で解決していないのは金王朝との間ぐらいだろう。

 さらに、「自衛隊は一流の装備を持ちながら海外ではきわめて抑制的に振る舞い、武力行使はしない。愚直なほどに原則にこだわり続ける姿勢が、国際社会における日本の『平和ブランド』をつくってきた。戦後日本が築いた資産のひとつだろう。9条を変えるなら、それを捨て去るのかどうかの議論が欠かせない。」などに至っては笑止の極みである。交戦していないのだから「武力行使はしない」のは当然としても、「抑制的に振る舞い」「愚直なほどに原則にこだわり続ける姿勢」とは、平和ブランドであろうがなかろうが素晴らしいことではないか。まさに戦前への反省が生きている証拠である。憲法がどのように改正されようと――仮に「国際紛争は須く戦争により解決すべし」と改悪されようとも――これは軍人に求められるべき規範であって、九条維持派だろうが改正派だろうが、それを捨て去るべきだなどと言う阿呆は玄界灘にでも沈めるべきだ。一体、改憲派の誰が、自衛隊に専横的に振る舞い、原則を破るようなことを望んでいるというのか。居るとすればそれは有事法制に反対した輩だろう。彼等は自衛隊は超法規的に防衛活動をしろと言っていたに等しいのだから。それなのに、まるで改憲して九条を改正したら、抑制的な軍隊ではなくなってしまうかのように書いている。ほとんど詐話に等しい論理展開だ。


 絶対の価値や不変の真理などない、というところから民主主義の精神が生まれたのだろうに――それが民主主義にも当てはまるこいうことが屡々無視されるのはともかくとしても――、たかだか国の在り方を定めているに過ぎない基本法が、金科玉条として戦後60年一字一句たりとも修正されずにいることを、どうしてもっと疑問を持たないのだろうか。60年前とは、社会通念も、人権意識も、国力も、国内の問題も、諸外国との関係も、全てが異なっているにも関わらず、である。法や国家のために人間がいるのではなく人間のために法や国家があるというのは、どちらかと言えば「リベラル」「左派」の言い分ではないかと思うのだが、朝日はいつから左翼を止めたのだろうか。