「大日本帝国憲法」「戦前回帰」というと、戦後輿論を主導していた左派は世にもおぞましいもの、暗黒時代の代名詞として使われてきたが、果たして本当にそうなのか、暗黒時代は帝国憲法に起因するのかというのが、憲法記念日の話題である。


 明治期に入り、我が国も近代国家として我が国を統一整備する必要があり、憲法と議会が作られた。大日本帝国憲法ができた時点では帝国議会はなかったから欽定憲法である。その憲法が些か中央集権的だったのは、新興国の日本にとってはやむを得ないことであったろう。国内に於いては近代国民国家を形成し富国強兵に勤めなければならず、外に目を向ければ支那やロシヤの脅威がある。清との戦争が起こるのは帝国憲法成立後五年のことである。「開発独裁」という言葉があるように、日本を近代化するためにある程度の強権を集中させるのはやむを得ないことだった。
 封建時代の国民に対し、近代国民国家を形成するためのフィクションとしての天皇の聖性という考え方は小室直樹の受け売りであるが、この見方は正しいと思う。天皇機関説を先帝陛下ご自身が「美濃部の言う通りである。機関説で良いではないか」とか仰ったという話だし、戦後の丸山真男あたりも天皇制の二面構造を指摘している。念のために記しておくと、天皇制の二面構造というのは、立憲君主制・今で言う「国民の統合の象徴」に過ぎない天皇という現実がありながら、無知な臣民には「天皇は絶対なるぞ」と教えて崇拝させるという形態のことである。呉智英はそれについて、戦後の民主主義だって同様だ、一方で民主主義は政治のやり方であり・一イデオロギーに過ぎないという事実を教えながら、無知な国民には「民主主義は絶対なるぞ」と教えるのは、天皇制と二面構造と同じではないか、明治天皇制はエリートと大衆は(制度的ではないにせよ)明確に分断されており、エリートが大衆を教導することを前提としていたが、民主主義はそういうではなく、国民みな平等であることを説いているのに、そのような民主主義の二面構造を民主主義エリートにしか教えないのは矛盾である、という指摘をしている。


 やがて統帥権という問題が出てきた。帝国憲法上、統帥権は天皇の大権とされていたため、ロンドン海軍軍縮条約で海軍の反対を押し切って調印した政府を攻撃しようと、野党や右翼や軍部がこれを利用した。とは言っても背景には国民のそれを後押しする「空気」もあったのではないかと思う。(それにしても右党が政権攻撃のために外部勢力を利用して後の禍根を残すというのは、なんだか最近も良く聞く話である)大正時代は、今で言うシビリアンコントロールがなんとか保たれていた時代だったが、この統帥権干犯問題のせいで歯止めが利かなくなり、軍部が暴走し始めたという見方を取る者も多い。弊社は軍部の後押しをする「空気」があったに違いないと見ているが。
 統帥権問題というのも憲法の拡大解釈みたいなものだったそうで(統帥権が神聖不可侵ならば恩賞権も神聖不可侵であって、内閣は勲章の授与に関与できないというのと同じぐらい馬鹿げた話になる)そもそも言いがかりであったのだが、その言いがかりが軍部の議会への口実となってしまった。
 それならば、だ。結果論ではあるが、統帥権の在り方について改憲を行えば良かったのである。帝国憲法の最大の問題点は、改憲を実質的に許さない硬性憲法だった点にある。もちろんそれも欽定憲法という「陛下の恩賜」に異を唱えるという見方もできたかもしれないが、帝国憲法にだって改憲の規定はあった。ただしおそらくそれにも反対する「空気」は生じたであろうことは想像に難くない。天皇制の「顕教」の部分が悪い方に働いてしまっているわけだが、それならば、明治憲法公布から五十余年、国民国家の成立は見たのだから、「顕教」についても検討することはできただろう。実際にそのような計画(国家主義色を弱めた「第二教育勅語」)もあったそうだが、諸処の経緯で流れてしまったそうである。事実ならつくづく悔やまれる。
 そもそも憲法なんてものは、所詮、国の在り方を定めるための決めごとに過ぎない。実情に合わなくなれば変えればよいのだ。かつて同僚だった支那人(北京大卒のエリート。現カナダ在住)と日支の問題について話した際、「日本が軍を持つこと自体はちっとも脅威だと思わないが、解釈改憲で済ましているのは国の在り方としてどうなのか」と指摘されたことがある。鋭い指摘だと思う。


 昭和史に名高い斎藤隆夫の「粛軍演説」は、昭和11年の話である。統帥権干犯問題から6年。この時点では議会はまだ軍部に対してものが言えた。この演説で斎藤は一切処分されなかったそうである。ところが軍部大臣現役武官制がそのすぐ後で成立し、時代は逆行してしまう。昭和15年の「反軍演説」の頃には、戦局悪化もあってか、さすがに除名の憂き目にあってしまった。もし昭和5年当時の議会が、軍部の専横を掣肘するような形での改憲をなしえていれば、制度的なフェイルセーフができ、その後の禍根を生まずに済んだ可能性もあったろう、少なくとも制度的には。先に軍部の専横を後押しした「空気」があったのではないかと記した通り、仮にこの時点で改憲しても、歴史の大勢は変わらなかったのかも知れない。五一五事件や二二六事件のようなこともあったわけで、反動的なよりもどし改憲が起きた可能性も否定できない。
 しかし可能な限り文民で軍をコントロールしようと努力するのは当然であって、大正まではそうして来たはずなのだ。大東亜の解放という理念も、その現実が単なる侵略に過ぎなかったのか、あるいは単に侵略の一言では片づけられないものだったかの判断はとりあえず措くとしても、完全な文民統制下に於いて行われた軍事行為であったなら、それは自ずと異なる結果となっただろうし、縦え同じ結果だったにせよ別の評価が下されていたことでもあろう。何より「責任」にせよ「功績」にせよ、現代の我々が大東亜戦争に対し幾ばくかの後ろ暗い気持ちを持つようなことはなかった――少なくとも、多くの人が持つそのような負い目はずっと少なかった――であろう。


 「不磨の大典」を文字通り錦の御旗にされてしまったが為に、時代の要請に合わせて国の形を変えることができず、結果的にあの大敗北へとつながってしまったとするなら、戦後六十年、大日本帝国憲法から百余年、まだ一度も自らの手で改憲を行ったことはない我々は、それを笑える立場にあるのだろうか。