救急隊員が、事故現場に落ちていた携帯電話に出ないことを得意げになって批判している自称元記者のblog が炎上している。わざわざ読売新聞の記事 を引用し「どれがどの人の携帯かわからないし、持ち主が無事なのかどうか答えられるはずもない」という隊員の苦悩に満ちた台詞まで引用してこれだ。マスコミの気構えをして「知的野次馬精神」と称することがあるが、この自称元記者の場合「痴的野次馬精神」というほかない。


 バカだねえ。現場で一刻を争う救急隊員が、「あちこちに携帯が転がっている」携帯電話を拾って応対している暇などあるか。後付けの言い訳に「すぐ救助できる状況になかったのだから、せめて携帯にぐらい出るべきだーということだ」などと書いているが、わざわざ元記事へのリンクを貼っておきながら「こみ上げる無念に耐え、鳴り続ける携帯をそのままに、助けを求める人を探して奥へ奥へと進んだ。」とすぐ下に書いてある文が読めなかったのだろうか。実際、(記事通りだとすれば)その隊員はその後「2両目からは5人を運び出し」ているのである。


 それにだ、もし仮に対応したとしよう。


「もしもし〇〇? 大丈夫? 電車脱線したって聞いたけど」
「私、消防局の××と申します。ご家族の方ですか」
「消防隊員さん? 息子は無事なんでしょうか」
「申し訳ありません。わかりません」
「わからないってことはないでしょう」
「現場に落ちていた電話に応対しているというだけですから」
「どこに落ちてたんですか」
「二両目の車内です」
「ああ、じゃあ巻き込まれたんですね、どこの病院に運ばれたんでしょうか」
「すみません。わかりません。まだ車内に閉じこめられているかもしれません」
「車内ってことは……怪我してるんですか?」
「ですからわかりません」
「わからないって無責任じゃないですか! わかる人に代わってください!」


 ……とこんな感じだろうか。あちこちに転がっている携帯電話、それもひとつの携帯に対して掛かってくるのは一回とは限らない。が、どれも電話の向こうには動転して気の立っている家族や友人がいるわけだ。結局は
【混乱した現場 冷たい応対 救助隊員不人情】
 などと書かれてしまうだろう。いや、端から公務員を叩きたい気で満々な“反骨精神”旺盛な痴的野次馬は、こう書くこともできるだろう、と言うべきか。だいたい救助現場で救助そっちのけで携帯電話で何か話をしているような救助隊員を見て、「ああ、落ちてた携帯電話で家族応対してるんだな。人情味のあるいい隊員だね」と思う人がいるのかね。「人の生き死にのかかってる現場で何をやってるんだ!」となるのが普通だろう。ましてや救助される側の立場ならなおのことだ。


 巻き込まれた家族の不安や混乱や憤りを否定することはできまい。が、その応対をするのは少なくとも現場で救助活動を行っている救急隊員の仕事ではない。この自称元記者は、blogが炎上した言い訳に「私がものを書く動機は常識や通念への反駁だ。」などと書いて恥の上塗りをしている。自分が「被害者家族の気持ちを大事にしろ」というワイドショーレベルの心情や、通俗的・紋切型の公務員批判から抜け出せていないことには気づいていないのだろう。田中康夫批判の記事には目を通していないが、少なくともこの件についての応対を見る限り、底の知れた反体制ぶりである。それにしても、「常識や通念への反駁」とやらのために非常識な言い分を配置するのは、この自称元記者にとっては正しいことなのだろうか。


 どうでもいいけど「大勢に棹差すことが私の身上」って、「棹差す」の意味を誤解してませんか? まあ、広辞苑に載っているぐらいの一般的な誤用ではあるが。今時の記者ってのは「草枕」ぐらい読んだことがないのかね。(尤も、漱石枕流は実行していらっしゃるようだが。)
 ふと気づいた。これも彼なりの「常識や通念への反駁」か。