実も蓋もないことを言ってしまえば、朝日も産経も、どっちも商売である。朝日・毎日は左向きを相手に、読売・産経は右向きを相手に売っているのだから、論調も自ずとそういう方向に定められるだろう。新聞だって慈善事業でやっているわけではないから、センセーショナルな記事を書くことも一概には責められまい。

 しかしながら新聞屋(というかマスコミ)には「俺達の記事で世の中を変えてやろう」という思い上がりもあるらしく、そりゃもちろん誰も知らなかった政治家の汚職や企業の不祥事なんかはバンバン報道してくれて構わないのだが、選挙になると野党を有形無形で支援するようなことをやらかしたりする。かつて自民党政権がとぎれて連立与党ができたときに、浮かれて「俺達の報道のおかげで政権交代が実現した」と吹聴してまわって国会に呼ばれたバカテレビ局長が居たりした。
 ただし野党を押すにはもう一つ理由があるだろう、やっぱり「与野党接戦・政権交代なるか」と気を持たせた方が新聞やテレビの視聴率が良くなるからだ。昨年のブッシュ再選のときは、日本テレビではCNNだったかの報道を引く形で日本時間の16時過ぎに当確の初報を出し、2ちゃんですら18時過ぎまでには「統計学上ブッシュの当確でFA」という論調になっていたが、テレビ各局や新聞社のサイトは日本時間の翌日未明まで「まだわからない」というようなことを言っていた。200万人の選挙区で、93%以上開票して得票差が20万票弱あれば、(有効か無効か確定しない票が10万票前後あったとしても)普通は当確出すだろうに。


 まあ、社会の木鐸であっても商売であっても構わないのだが、もしそこに不誠実があるとすれば、前者なら道義的に、後者なら職業倫理として非難されるべきである。弊社が朝日伝聞をなぜ非難するかと言えば、例えば韓国でのいわゆる「従軍慰安婦強制連行」を、さも事実であったかのように報道し、それが完全に反日プロパガンダであったにもかかわらず未だに訂正もせず、それとなく確定事項であるかのように報道しているからだ。さすがに名言はしておらず、言質は取られないようになっていて、抗議しても大方「そう誤読するのは勝手です」とか宣うのだろう。変節漢に加えて卑劣漢でもあるから。
 正直なところ、大方の日本人は慰安婦の問題なんてどうでもいいと思っているのではないかと思う。そして、仮にあったとしても賠償するのは自分の懐から金が出るわけでもないし、とも。「慰安婦問題救済のために目的増税します」とか言い出したら絶対文句言う癖に。まあそれはともかく、「本当でも嘘でもいいや」程度に思っている人達に、「被害者はこんなに傷ついている。それでもあなたは強制連行はなかったと言うのか」と迫れば、誰だって自分は「いい人」の側で居たいという卑劣な正義感を持っているから、思考停止して「慰安婦強制連行はあったと思う」と公的には発言するだろう。そういう空気が問題をこじらせ、日本の国益も損なっているにも関わらず、朝日伝聞はそれを助長するような報道ばかり行っている。同じことが支那にも当てはまり、南京事件やら靖国参拝やらを持ち出して、卑劣な正義感に訴える。その結果が、尖閣諸島沖の海底油田だ。海底油田の資産価値は、一説では600兆円、1/10としても60兆円だそうである。本来ならその9割が日本のものとなるはずなのに、既知外務省の卑劣な正義感のせいでこれが「共同開発」という名目の朝貢になってしまった。ちなみに、いわゆる自虐教科書がこうした「卑劣な正義感」を助長していることは言うまでもない。

 朝日伝聞は、日本を貶めることが生き甲斐になっている一部の化石達に向けて書いているのだからそれでいいのかもしれないが、それならいっそ一般人向けの無害な紙面と、“インテリ”向けの畸痴害な紙面を刷って、二種類売ったらどうだろうか。


 皮肉はさておき、新聞が社会の木鐸を自認するのであれば、木鐸としての資質も社会に問われなければならないはずである。そこで一つ提案がある。各新聞社とも、同じ話題に関する記事や論説などを一ページか二ページぐらいにまとめ、それぞれの各社のまとめページを持ち寄って一部の特別号とし、街頭に配ったり、折り込みにして配布するというするのはどうだろうか。読者はその特別号で、読売・朝日・毎日・産経の、例えば拉致問題なら拉致問題、教科書問題なら教科書問題をどう報道したか、一目瞭然となる。自分の好もしいと思える論調の新聞を取る者もいれば、敢えて自分とは逆の立場を取る新聞を取ろうという者もあるだろう。

 そういう性質である以上、特別版のために記事を書き下ろしてはならない。レイアウトぐらいは変えてもいいだろうが、見出しのフォントサイズの変更は禁止である。ベタ記事を三段抜きで扱ったように編集したり、その逆の編集は禁止。あくまで、あるひとつの事件をどの程度の大きさでどのように報道し、どのような見解を記したのかのまとめである。それを、可能ならその地域で取れる全紙ぶんまとめて、月に一度、できれば契約更改の一週間ぐらい前に各家庭に配達するのだ。どの話題を扱うかは、地域各社で協議して決めればよい。国民一人一人のメディアリテラシーを育てることにもなるのだから、公費助成をしたっていいだろう。新聞は複数取って読み比べろと言うが、この方法なら何紙も取るほど経済的に余裕がなくても、図書館にいちいち行くほど時間的余裕がなくても、簡単に比較することができるのだ。結果として新聞の記事内容に公共性が高まるなら言うことなしだ。


 朝日は「自分たちはインテリの読むクオリティーペーパーだ」と思ってるのだろうし、読売は子飼いの中公新書で「読売社説vs朝日社説」なんていう本を出しているぐらいなのだから、どちらも紙面の内容で勝負をすることにかけては自身があるのだろう。だったらこの「ダイジェスト版勝負」をしてみてはどうだろうか。それができないというのなら、所詮どっちもただの売文業であるから、再販制度なんか廃止してしまうほうがいい。