フロレスタン氏からトラックバック代わりのエントリ を頂いたので、こちらもさらに論を進めてみようと思います。

 

 まずカルト論について一点はっきりさせておきます。「ある宗教はカルトである」という見方は、必ずその宗教外からしか発生しません。原理主義ならばそう自称することはあるかもしれません。でもカルトと原理主義は当然ながら別の尺度です。尤も、カルト宗教をビジネスでやっている幹部が自らをカルトだと認識していることはありうるでしょう。でもそんなのは不信心だからそう言えるのであって、どんなに客観的にカルトであろうとも、主観的には真善美を追求しているのだと答えるはずです。その非社会性こそが宗教なのですが、とりあえずその説明は後にもう一度します。
 そしてもうひとつ、前述より、カルトは社会に対して絶対的少数であるということ。カルト集団がある社会に於いて多数派を占めているなら、社会はその集団をカルトと定義しえないわけです。例えば魔女狩りなんてことをやっていたころのキリスト教だって、彼らは主観的にカルトだとは思っていませんでした。そうだよね。彼らはカルトを狩ると言って魔女狩りをしてるんだもの。山中に引き籠もって魔女狩りまがいのリンチで「同志」を殺害した連合赤軍だって、客観的には「共産カルト」「革命カルト」ですが、彼らにとっては革命闘争であり正義の鉄拳でした。要するに、カルトという評価は、あくまで相対的なものでしかないのです。敢えて皮肉な言い方をするなら、カルトというのは“差別語”です。社会的な強者・体制の側が「差別される側に問題がある」として一方的な評価を下し、差別される側はそれを好ましく思っていないのですから。平等主義者の人はこういうのを認めていいのかね(笑) ちなみに私は平等主義者ではないので、カルトは差別します。キモいんだよと。

 

 さて、フロレスタン氏は「耳元でいろんや話を優しくしてあげれば、それが聾を治療、という話につながる可能性が考えられます。ここが「空中浮揚」のようなありえない行動を信じ込ませた某カルト教祖との違いでしょう」と書いておられます。イエスではないが、「神があなたがたに語られた事を、あなたがたは読んだことがないのですか」と問いたい。それなら処女懐胎やらモーセの海割りやらは何なのかと。
 氏も記している通り、現代は科学の時代です。空中浮游だの水中クンバカだのの「非奇跡性」が簡単に証明されるというだけのことであって、2000年前なら胡座ジャンプだって空中浮游と伝わったかもしれませんよ。同様に、明日モーセが海割りをやったとしても、ファーイーストリサーチ社などによって「地殻の変動と潮流の変化によって生じた偶然」と証明されてしまうかも知れない。2000年前のあやしげな奇跡の伝聞は正しい宗教で、現代のあやしげな奇跡写真はカルトだとするのは、良く言えば権威主義、悪く言えば宗教的偏見ではないでしょうか。

 

 もし「神の子」が今のご時世に降誕なさったとして、果たして彼はどう評価されるでしょうか。私は今年も行けませんでしたけど、東京九段の靖国神社は花見の名所です。知人が靖国神社にお参りに行ったそうですが、花見客とそれ目当ての屋台が並んでいたと大層憤慨していました。ここでこの知人が「英霊の家は、祈りの家であって、強盗の巣ではない」といって、この屋台を打ち倒したらどうでしょう。国家神道的には「神の子」かもしれんが、タダのキチガイだわね(笑) こうした狭量は、イエス(や国家神道)の聖性を信じる者には通用するかもしれません。でも、どこの馬の骨とも知れない若者にそんなことをされたテキ屋のおっちゃんを初め、世俗の人々にとっては( ゚д゚)ポカーンです。「祭司長、律法学者、民の指導者」ならぬ警視庁だって「俺は神の子だ」などというあいまいな供述を繰り返すこの男をどうすることもできないでしょう。人々が支持していたからではなくて、ニヤニヤと生暖かい目線で見守っていたからとも考えられないでしょうか。
 念のために記しておきますが、イエスがキチガイだと言いたいわけじゃありません。が、今の価値観で見れば、原始キリスト教はカルト集団に映ります。狭量・出家・終末思想・既存宗教からの言葉や概念の流用。金に汚い記述がないのが救いですが、信じない奴はもうじき世界が終わるが、教えを信じない奴は復活できないと説いている。厳密には本人が言ったのではないのかも知れませんけども、その弟子で、「聖人」にもなってる人が言ってるんですから、どのみち一緒です。

 

 時として宗教が既存の社会と対立するのは、宗教の宗教性、即ち独自の価値体系・公理体系を発揮するからであって、イエスのこうした態度や行いはまさに宗教そのものです。イスラム圏が近代化の恩恵をあまり浴していないのも、イスラム教の公理体系が確固としたものでありすぎるために、それが近代の公理となかなか調和しないからでしょう。
 ところで、先日亡くなったローマ教皇のヨハネ・パウロ二世は、東欧の民主化に寄与したとして大変評価されています。でも、これって、宗教的に正しいことなんでしょうか。言い方や見る立場を変えれば、政治に口を挟む生臭坊主ではありませんか? 政教分離の見地からしてもどうなんでしょうね。むろん、先代教皇の功績を否定する気は全くありませんし、仄聞する限りではとてもいい人なのだと思います。が、私はキリスト教徒ではないのでキリスト教的な評価はできません。評価できるのは世俗的・政治的功績です。あくまで世俗的な意味でなら、“聖人”と評価されてもおかしくはないと思いますけども。
 ただ、彼が生前に起こした「奇跡」を挙げて、聖列すべきだという声が揚がっているという新聞記事を見ましたけども、本当かね(笑) 奇跡を見たという証言も、それを称揚する新聞記事も疑わしいですが、それ以前に政治的に功績を残したからといって、聖列に加入しちゃって良いのでしょうか。どちらかといえば、それまでイエスの教え、カトリックの教えとされてきたことを否定したのですから、論理的には背教者となるのではないでしょうか。現に原理主義の「エホバの証人」あたりはそう批判しています。ところでヨハネパウロ二世が聖列加入したとして、今後「やっぱり共産主義が正しい思想で、反共は間違っていた」となったりしたら、ヨハネパウロ二世は聖列から外されちゃったりするのでしょうか。
 宗教の政治化・世俗化は、我々世俗の者からすれば、社会の安定につながる歓迎すべきことです。軍隊がわざわざ行って、地元の要請に応えて土建屋の代わりをするだけで、その軍隊を派遣した国の無関係な若者が拉致され、あまつさえ首を刎ねるというような宗教を、社会が歓迎するわけありません。しかし宗教の世俗化は、社会によって宗教が飼い慣らされたことも意味します。聖書を読んだ限りでは「イエスもその使徒もそんなことは望んじゃいなかったんじゃないかなあ」と想像してしまいます。まあ、これは信仰心なき者の勝手な解釈なわけですが。

 

 フロレスタン氏は文末で「少なくとも100年以上の歴史的評価と、多くの人の支持があってはじめて、初期にはカルトに思えた新興宗教が、カルトを脱していくのではないでしょうか。」としていますが、どうでしょう。ガリレオが言論弾圧されたのは、キリスト教が何年の歴史を経てからのことでしょうか。KKKなんかは設立から百年は経ってるでしょうし、未だに支持されてもいますが、何年経とうとあれはカルトです。「カルトを脱する」というのが世俗化するという意味だとしても、上述のようにそれを良きこととするのは世俗の立場であって、カルト自身ではありません。
 松本智津夫の宗教が、「100年以上の歴史的評価と、多くの人の支持」を受ける可能性なるものをどれほど持っているのか知りませんが、少なくとも我々世俗の者からすれば、あるいは充分に世俗化したキリスト教徒からすれば、アーレフはカルトであるとしか言い様がありません。それと同じように、2000年前のユダヤ人にとってもキリスト教はカルトと映ったでしょう。
 牧師がプロテスタント以外の宗教を「邪教だ」として排斥するというならまだわかります。しかし、似非宗教を「カルトだ」として石もて打つことは、社会的には穏当で常識的な意見かも知れませんが、ユダヤ人によるキリストの磔刑を肯定することにすらつながるのではないでしょうか。キリスト教徒が1%を超えないというのも、教義より世俗の和を重視してしまう、このような国民性に原因があるのかもしれません。