先日のblogにも書いたが、教科書検定に際して白表紙本を使うのは、著者がどのような思想の持ち主でも記された内容のみを評価すべき理由からであり、またその保管を義務づけるのは内容についての賞賛あるいは批判によって検定官に先入観を抱かせないためである。そのこと自体は思想の左右を問わず正しいと評価されるべきことと言えるだろう。

 

 扶桑社の営業担当者が検定中の申請本を各地の教員などに渡していたそうで、文部科学省から三度も回収などを指導されていたそうである。何ということか。弊社は個人的には扶桑社の試みを評価している。(教科書自体は他と比較すれば独自性はあるものの、内容が特に“右向き”であるようには思わなかった。)それ故にこの扶桑社の営業のやったことは許し難い。
 多くの人は実際に扶桑社の教科書など読んでいないだろう。だが、「読んでいないから評価もできない」という知的誠実さを持つ人は少ない。ノイジーマイノリティーらのように「右翼教科書だ」と繰り返されれば、普通の人は右翼教科書だと思うようになるだろう。少なくともテレビカメラを突きつけられて「扶桑社の教科書をどう思いますか」と問われたら「右翼でけしからん」と答えることが誠実さ・良識であると思うようになるだろう。
 この「根拠は薄いがこう答えれば誠実・良識派・多数派に見える」という態度を取ることが全体主義につながるのではないかと思うのだが、とりあえず本題とはやや外れるので措くとする。が、明らかにこうした「ソースロンダリング」(「〇〇は右翼だ」と叫ぶ→世間の人が「〇〇は右翼なのか」と思うようになる→「世間では『〇〇は右翼だ』と言うのが一般的だ」と言い出す。以下繰り返し)が前回の採択率につながったのであろう。思えば新左翼以降の市民運動など、ほとんどがこのパターンの「“良心”への恫喝」である。

 

 先日のblogで指摘した通り、四年前の検定では、扶桑社が意図的に流出したかは知らぬが、琉球大の高嶋工作員が喜んで扶桑社の白表紙本の複写を配っていた。今年も高嶋工作員はバラ撒いているが、「扶桑社の営業が配って回ったんだからそれを手伝ってやってるだけだ」などと言っている。扶桑社のバカ営業は、こうした事態を招くことを歓迎しているのか? 話題になって教科書が売れればいいなどと考えているのなら、弊社は金輪際扶桑社の教科書は支持しない。


 尤も、このバカ営業(懲戒免職でもいいぐらいだと思うが)を辯護するとすれば、白表紙本を見せることと、見せてその感想を訊き、報道することではステージが全然違う。見せただけなら白表紙本を読んだ者の感想が伝搬あるいは増幅されて輿論になったり、それが検定官に予断を抱かせることにはなるまい。その点、朝日伝聞の批判は的が外れている。検定期間内に産経新聞が扶桑社の教科書を「相応しい教科書だ」などと賞賛報道していたとなれば話は別だが。