すべての宗教はイデオロギーである。そしてイデオロギーとは世界を説明する公理系である。社会に許容される宗教というのは即ち、社会一般に適用されているイデオロギーと多くの場面で公理を共用しうる宗教のことだ。「殺すな」と教える宗教が例えば人食い部族に根付くわけがないし、「姦淫するな」と教える宗教がフリーセックス部族に根付くわけがない。根付いたとしたら、宗教によってそれまで部族にあったイデオロギーが改変されたか(改宗)、部族のイデオロギーに沿う形で教義がねじまげられたか(土着化)である。逆に、共有し得ない公理についてどちらの公理系も歩み寄りを見せない場合、その宗教は「邪教」「異端」となり、社会はそれを抹殺しようとするし、宗教の側は時として社会そのものを破壊しようとする。まあ、ほとんどの場合は宗教が消滅するか排斥される形で決着がつくと思うが。
 産経新聞のコラムにこのような文 を見つけた。

 

--引用--
 日本のキリスト教徒の数が人口の1%をどうしても超えない、いわゆる“1%の壁”というものがある。さいたま市に住む牧師の酒井透さん(80)は、腎不全で透析治療を受けている奥さんを看護していて、その理由がわかった。(中略)▼急に酒井さんに連絡をとろうと思い立ったのはほかでもない、京都の聖神中央教会の牧師が引き起こしたいまわしい事件について聞きたかったからだ。酒井さんは本紙の談話室の常連投稿者であり、これまでも「似て非なる“宗教”の怖さ」などと警告を発してきた。▼酒井さん流の似非(えせ)宗教の見分け方は「既成宗教の言葉や教えのある部分を織り交ぜ、拡大解釈して自分の言葉を構成している」ことだ。これはそっくり永田保容疑者にあてはまる。
--引用終--

 

 ああ、善良なる酒井牧師よ。あなたは信仰心も篤く、社会への関心も旺盛なのでしょう。だが敢えて問いたい。ナザレのイエスがあちこちを歩いていた頃、彼はユダヤ教の「言葉や教えのある部分を織り交ぜ、拡大解釈して自分の言葉を構成して」はいなかったか。それだけではない。彼は盲やつんぼや足萎えを癒すという現世利益のオカルトまでやっていた。しかも新約聖書の新訳とは、ユダヤ教の旧約に対して「新しい契約」という意味ではないか。
 むろん、聖書に記されていないのだから、イエスは強姦などし、金に汚いということもなかったろう。遠藤周作に倣って解釈するなら「イエスは強姦はしなかったとは書いてないからイエスも強姦しただろう」とする余地は残るかもしれないが。しかし、仮にイエスが現代の日本に生まれたら、この善良なる酒井牧師らによって、間違いなく似非宗教と認定されることは間違いない。彼はさして仕事もせずに各地を放浪し、終末思想を説き、オカルトめいた医療行為をしながら、ユダヤ教の一部を織り交ぜて自分の言葉を発してきたからだ。その上彼の教えに忠実な人達は、聖地奪回を名目に、魔女裁判を名目に、異教徒は人間ではないとして、オウム真理教ごときでは太刀打ちできないほど多くの人を殺してきた。

 

 なにもここでキリスト教批判やオカルト擁護をやろうというのではない。産経抄で説いているように、「『本来の宗教とは何か』ということについて考える時間と場を」持ったまでのことだ。「故なく人を殺してはいけない」というのは近代の公理だが、「神」は人を殺しても良いのであり、時として神が欲すれば、人は故なくとも人を殺めなければならないのである。それが冒頭で記した例の「共有しえない公理」というやつだ。宗教は例外なくこのような部分を持っているはずなのだ。逆に言えば、そうした部分を持っていないとすればそれは宗教ではない。人を社会や体制に適応させるための教えを、我々は世俗道徳と呼ぶのである。
 例えば強姦魔の金保が「神の子」であるという命題は、彼の説く妄想体系――どんな教えだか知らないが――の中にいる限りは否定できない。それはイエスが神の子であることを、キリスト教徒が否定できないのと同じことである。(むろん、金保もイエスも、近代のイデオロギーから神であることを証明できない。)では、社会が金保や文鮮明や松本智津夫や池田大作が「カルト」とされ、ナザレのイエスやマホメットが「カルト」とならないのはなぜか。土着化したからなのか。それとも2000年の歳月を経て権力者も拝むようになったからなのか。信じる者が多ければいいのか。

 

 宗教を誠実に考えることは、神と不誠実に向き合うことになると思うのだがどうだろうか。