「人権」という言葉が安易に使われすぎるようになって久しい。近代的な人権は、制度的に拡大解釈を宿命づけられていると言っても過言ではない。「人権」を全面的に肯定していけば、それは放資と無秩序の無政府社会に行き着くに決まっており、しかもその盲目的信奉者は自分たちが行き着く先にパラダイスがあると信じて疑わない。子供を「子ども」と書いてみたり、精神分裂病を統合失調症と言い換えることで世の中が良くなると本気で信じる者がいるあたり、事態は絶望的である。

 「天賦人権」なるものが本当に存在すると思っている法学徒は、悪いこと言わない、法学を諦めて勤め人にでもなったほうが世のためです。いや、居たんだよ、Wの法学部の知り合いでさ。
 市民権も財産権も生命権も、当然人権も、この世に存在するあらゆる「権利」と名の付くものは、それを保証する機構(もっと端的に言えば暴力)がなければ存在し得ないのであって、権利蹂躙行為の主体者に対し、統治者が物理的暴力も含む実力行使でこれを威嚇し、止めさせ、あるいは制裁を科すことがない限り、権利というものは効力を持ちえない。
 その上で、国家が国民の“権利”を侵害しないために、天賦人権というフィクションで国民に一定の“権利”を保証しましょう、というのが近代的人権だ。その意味ではよくコピペにされる「死んでしまった者に人権はないのである」という一文は正しい。人権は国家が国民に対して保証すべきものだからだ。正しいが、片手落ちだ。それと同じ意味で、「生きている者すら、他人に対しては人権はない」のである。だから刑法は、「人ヲ殺シタル者ハ、死刑又ハ無期若シクハ三年 以上ノ懲役ニ処ス」と、殺人者に対する政府の処遇を記しているだけで、人を殺してはいけませんとは一言も書かれていない。だからその文脈でしか物が考えられない輩は、「人を殺して何故悪い」と問われても、何も答えられない。
 だがそれでは無政府状態と一緒なわけで、国民同士の間でも人権が守られるよう、人権蹂躙者を国家が罰する必要もあるわけだ。「被害者の人権が軽視されている」というのは、人権を侵害した者を国家が充分に罰しないことで、他人による人権侵害を容易にする、という意味である。
 私人のあいだで人権を守るためには、いきおい警察国家になってゆくしかないのだが、なぜか今回の人権擁護法案に関しては、警察国家の再来だの軍靴の音だのという声が左方面からあまり聞こえてこない。つまるところは在日だの解同だのといった差別利権の恩恵に預かってきた集団が同法案には賛成だからであり、ここから日本の左翼の少なからぬ部分がこれらの組織であること、左翼と雖も自分たちの利権のためなら警察国家も肯定することなどが伺い知れる。

 人権の範囲は憲法によって定められている。だがその憲法は国民が定めた(承諾した)ものなのだから、国民によって、もっと言えばその国民の文化や歴史に依存して範囲が定められるに等しい。よく「日本人は人権意識が足りない」などと言うが、そんなのは余計なお世話であって、70年代まで婦人参政権がなかったスイスは人権意識が足りないと言う人はいないし、国会に耶蘇坊主を飼っているアメリカが政教分離に反するなどと言う者もいない。同じように、国家が存在する以前は全裸で暮らしたからといって罰せられることはなかったのだから、全裸でうろつくのは本来なら人権の範疇だろうが、公然猥褻罪は人権侵害の弾圧だから廃止すべしなどと主張する者がいるとは寡聞にして知らない。
 そもそも人権があって良い統治が生まれるのではない。「良い統治」というう理想があり、その理想に現実を近づけるために人権という概念を持ち出したのである。文化によって「良い統治」の理想が異なるから、人権として保証される諸権利の実態も異なるのだ。理不尽な人権を主張する者に対し、「それは人権ではない」とはっきり言い返すことが今後必要になって来るのではないだろうか。